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中東地域代表部首席代表 松永 一
最新の派遣先:レバノン(二国間) 

プロフィール紹介
福岡県出身。本社所属。
派遣歴:インドネシア(2008~2009)、フィリピン(2009~2011)、パキスタン(2011~2012)、フィリピン(2012~2017)、ネパール(2017~2018)、ラオス(2018)、中国(2020)、インド(2021~2022年)、レバノン(2022~)(合計11回派遣:日赤派遣5回、連盟派遣6回)

国際要員を目指したきっかけ

私が海外派遣を目指すことになったきっかけは1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災です。大学時代に先進国と途上国の経済格差を学んだことから、震災前は人が生きるためには「衣食住」が大切と感じ、「住」に携わる住宅メーカーに就職し、その後営業マンとして兵庫県で二世帯住宅への建て替えや、新築住宅の契約獲得に奔走していました。ただ、震災後は本当に家が無くなってしまった人びとの住宅を提供することとなり、「住」を提供したかったのは正にこういう人たちで、そのような人びとが多い海外の途上国で人道支援をしたい、ということに気づいた瞬間でもありました。

国際要員として登録されるまでの道のり

住宅メーカーの営業マンでしたので当時働いていた会社を退職し、まずは語学が必要と感じて、語学留学をしました。その後、語学を身につけただけでは仕事は出来ないと感じ、海外の大学院で開発学を学びました。さらに、すぐには人道支援の業務は出来ないと感じて、国連開発計画(UNDP)のジョージア代表部で人間開発指数(Human Development Index)のジョージア版の作成に関わったり、ジェンダーの不平等を解決するための法整備を支援したりするインターンを経験しました。その後、日本の幾つかのNGOJICA業務で緊急支援物資配布、巡回診療、地域保健活動、母子保健の促進、小児外科医・看護師育成、学校建設といった事業で現地における事業管理を担当しました。そんな頃に日赤の海外派遣要員の募集を目にして応募し、採用されたのが赤十字での仕事の始まりです。

現地での活動のやりがいは?

日赤の二国間支援や、国際赤十字・赤新月社連盟での業務に従事してきましたが、人道支援という仕事の面白いところは、自分自身が担っていた仕事を、徐々に現地の人々が担っていくことになって、自分自身の仕事が無くなっていくところに顕著な成果が見えてくる、ということではないでしょうか。他人の助けを必要とする人びとがいるので、人道支援という仕事が生まれることを考慮すると、本来、他人の助けを必要としない世界には人道支援という仕事は要らないはずです。そんなことも考えると、「現地での自分の仕事が一日でも早く無くなる」、というのが、少々不思議なやりがいのように感じています。

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パレスチナ赤新月社(パ赤)ガザ支部、パ赤運営のアルクッズ病院関係者を集めて実施したワークショップ

今後の目標

今後発生すると言われている南海トラフ巨大地震のような大規模な災害が日本で起こった場合には、次は恐らく、海外の人道支援団体で働く人々がもっと大規模に日本国内で救援活動をするだろうと思っています。そんな時には海外派遣の経験を活かして、こうした人たちと一緒に救援活動が出来ればと考えています。日本で多くの人たちが苦しい状況になることを想定した上での話で、不謹慎ではありますが、「次なる派遣の目標は」、「今後の目標は」、という質問の裏には、それだけ苦しい人々がまた生まれる、ということが前提の話になりますので、つくづく、人道支援という仕事は因果な仕事だと感じています。

最後にひとこと

海外で多少なりとも人道支援業務に関わりたい人が、このインタビューの記事を読むと、計画通りに順調にキャリアを積んできたように思われるかもしれませんが、その時々の自分自身を振り返ると、先が全く読めないような状況が続いていたのが実際のところです。周りの方の支えや縁もあって、今日の自分にいたっていますので、そういう方々や境遇に本当に感謝していますが、苦しい状況下でも頑張れるかどうかは、最終的には、やはり本人がどれだけ強い想い、初心を持っているのか、に尽きるように思います。この記事がこうした人たちの今後の参考になっていれば大変幸いです。

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