感染症と闘うメコン地域の人々
HIV/AIDS啓発キャンペーンの様子©CRCS
東南アジアのメコン川流域(※1) では、移民・難民の増加や医療アクセスの制限により、肺炎・結核・HIV、さらには新型感染症などの拡大が懸念されています。密集した居住環境や制度の壁が、予防や治療の機会を妨げ、地域全体の公衆衛生に深刻な影響を及ぼしかねない状況です。
こうした課題に対し、赤十字は国境を超えて連携し、ワクチン供給や啓発活動を通じて、感染症の予防と患者への差別や偏見の解消に取り組んでいます。現地の赤十字社が中心となって展開する支援の最前線から、国際赤十字・赤新月社連盟(以下、IFRC)の保健要員として活動する福岡赤十字病院の水谷看護師が、タイとカンボジアにおける公衆衛生改善に向けた取り組みの様子をお伝えします。
(※1)本文では、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの4カ国を指す。
タイ:移民流入と国境地帯の人道課題
ミャンマーの不安定な政治・経済情勢や紛争、貧困などを理由に、多くの人々が隣国のタイに働きに出たり避難したりしています。特にタイとミャンマーの国境地域には、多くのミャンマー出身の移民や難民が暮らしています。タイのミャンマー人難民キャンプは1980年代から存在しています。当時、民族紛争や政情不安に伴う厳しい環境を逃れて、多くの少数民族が国境を越えて避難し始めました。それ以来、タイ北西部の国境沿いには難民キャンプが設立され、約40年にわたる長期的な難民問題となっています。
タイでは、都市部にも多くのミャンマー人が住んでいますが、経済的・政治的困難を背景に、正規のビザや労働許可を持たず、不法滞在の状態で生活する人も少なくありません。こうした人は、言語の壁や、身分証明書や法的保護の欠如などにより、社会的に弱い立場に置かれています。そのため家事労働に従事したり、タイ人が敬遠しがちな低賃金の職種を担っています。
医療アクセスの壁と感染症拡大の懸念
言語の壁や身分証明書の欠如、経済的事情、不法滞在といった要因により、多くの移民や難民は、公的医療サービスを利用しにくい状況に置かれています。その結果、病院に行きたくても行けず、適切な治療を受けられないケースが多く見られます。
治療を受けられない場合、風邪や肺炎、結核、HIV、さらには新興感染症などが早期治療されず、感染が拡大する恐れがあります。移民や難民は特に、密集した居住環境や衛生環境の悪い場所で暮らすことが多いため、拡大のリスクはいっそう高まっています。
ミャンマーからタイに移住した人々の中には、母国での政治的混乱や医療体制の崩壊により、ワクチン接種の機会を十分に得られなかったケースもあります。タイ国内でも移民や難民が公的な接種制度にアクセスしづらい状況が続いており、接種率の格差が懸念されています。
この状況を改善するには、ワクチン供給の強化や適切な情報提供、移民労働者に対する医療アクセス向上が不可欠です。また、国際機関やNGOによる支援も接種率向上の鍵となります。
感染症が拡大すれば、タイ国内の公衆衛生全体にも深刻な影響を及ぼし、地域の健康が脅かされます。感染症の拡大防止の観点からも、移民の医療アクセス改善は急務であり、国際社会や地域団体による継続的な支援が求められます。
国境地帯での医療支援プロジェクト
こうした課題に対応するため、タイ赤十字社(以下、タイ赤)はタイ・ミャンマー国境付近のターク県において、ワクチン・医薬品プロジェクトの実証事業を計画しました。
ターク県はミャンマーに隣接する国境地帯であり、ミャンマーの長期にわたる情勢不安による人道危機の影響を受けています。この地域では社会的に弱い立場に置かれやすい人々の移動が絶えず発生しています。人々の絶え間ない移動は感染症まん延のリスクを高めており、県境地域の一般の住民も常に高い健康リスクにさらされています。
国際移住機関(IOM)の報告よると、ターク県保健局が2024年の最初の4カ月に提供した移民向け医療サービスの利用者は、前年同時期と比べて60%以上増加しました。移民の多くは医療費を負担できないため、地元の病院が医療費を負担しており、財政的負担が深刻化しています。また、地元の医療機関は予算に限りがあるため、弱い立場にある人の多くは十分な医療サービスを受けられていません。
さらに、地域の保健医療機関ではワクチンや医薬品が不足していることから、タイ赤は政府や関係機関と連携し、ターク県の国境沿いに暮らす弱い立場にある人々を対象としてワクチン・医薬品といった医療サービスを届けるプロジェクトを開始しました。対象はターク県の国境沿いにある公立病院、私設クリニック、難民キャンプのサービスエリア内に住むタイ国民、非タイ人、無国籍者であり、その中でも特に子どもや妊婦などが重視されています。病院には約15,000回分以上のワクチンや医薬品が供給される予定です。
2025年5月には、事業開始を記念したセレモニーが開催され、タイ赤をはじめ、地元テレビ局、赤十字国際委員会(ICRC)、保健省、病院関係者などが参加しました。私自身もIFRCおよび日本赤十字社の一員として出席し(※2) 、この事業が地域に与える大きな意義を実感しました。
(※2)日本赤十字社は2025年3月にNHK海外たすけあいにより、本取り組みへ資金拠出を行いました。
ターク県の国境沿いの公立病院で行われたワクチン事業のセレモニーの様子©TRCS
その後、支援対象となるクリニックにも訪問し、彼らが抱える課題とニーズを直接確認しました。海外からの支援の打ち切りもあって、多くの地域で影響が広がっており、タイ国内のミャンマー難民キャンプにおける保健施設も閉鎖されつつあります。こうした状況は人々の生活や医療ニーズへの対応をいっそう困難にしており、だからこそ、このような支援が強く求められているのです。
カンボジア:移民のぜい弱性とHIV感染リスク
メコン地域におけるHIVの状況は、特に不法移民に対する関心の低さが背景にあり、カンボジアでも深刻な課題となっています。保健サービスや社会保障へのアクセスが限られていることが、移民のぜい弱性を高め、HIV感染リスクの増加につながっています。この問題に対応するためには、出国前のHIV予防・治療・ケアに関する情報提供の強化、移民を保護する労働法や移民法の整備・施行、医療サービスへのアクセス改善などの対策が求められます。今後、これらに取り組み始めることにより、新規HIV感染の予防、ケアと治療の継続率の向上、さらにはHIVに関連する差別や偏見の是正につながることが期待されています。
カンボジア赤十字社(以下、カンボジア赤)は長年にわたりHIV予防啓発活動に取り組んできました。特に国境付近ではHIVり患率が高く、その背景には以下のような要因があります。
- 出稼ぎや商業取引で国境を頻繁に越えるため、パートナー間の感染リスクが高まっていること
- 地方や国境近くでは、HIV検査や治療が受けられる医療機関が限られること
- 感染の疑いがあっても、差別や偏見を恐れて検査や治療を避けるケースがあること
- 移動や就労環境の変化によって、治療の継続が困難になること
これらの要因が重なり、カンボジアの移民や国境地域住民のHIV感染リスクをさらに高めているのです。
U=Uキャンペーンと赤十字の啓発活動
2025年7月、カンボジア赤はバッタンバン州で「U=U(Undetectable = Untransmittable)」キャンペーンイベントを開催しました。U=Uは「HIVに感染していても、抗レトロウイルス治療(ART)によりウイルス量が検出限界以下になれば、性的に他者へ感染させることはない」という科学的事実に基づく、世界的な健康・人権キャンペーンです。正しい知識を普及させることで、HIVと共に生きる人々への偏見をなくし、誰もが安心して暮らせる社会を目指しています。
当日は100名を超える地域住民が参加し、街を練り歩いて偏見解消を呼びかけました。HIVと共に暮らす方々も参加し、共にメッセージを発信しました。イベント終了後、カンボジア赤と共に近隣の村を訪問しました。その村では約20年前、治療時の注射器の使い回しによって多くの住民がHIVに感染しました。当時は強い偏見により村全体が孤立しましたが、現在では偏見は軽減し、抗ウイルス薬の服用により、妊娠・出産や性生活を含め通常通りの生活が可能となっています。

U=Uキャンペーンに参加する住民©CRCS

同キャンペーンに参加する水谷看護師(左から2人目)©CRCS
地域の変化と偏見解消への取り組み
私はIFRCの保健担当としてこのイベントに参加しましたが、それまでU=Uの概念や取り組みについて十分に理解していなかったことに気づかされました。
カンボジアではHIV感染者に対し無償で薬剤治療が提供されており、多くの人々がウイルスをコントロールし、日常生活を送ることができています。カンボジア赤はその成果を自信に変え、積極的に啓発活動を展開しています。
家庭訪問や現場視察を通じて、私は地域に根差したHIV予防啓発の重要性、そしてU=Uというメッセージが持つ大きな力を改めて実感しました。この活動は感染予防にとどまらず、人権の尊重や差別の解消にもつながるものであり、日本の皆さまにもぜひ知っていただきたい取り組みです。
日本では想像しづらい問題も多くありますが、各国の赤十字社はこうした現実に真摯に向き合っています。日本赤十字社もIFRCを通じ、これからもこれらの活動を支え続けていきます。