「医療的ケア児」と災害の備え~英樹くんの場合~

全国に医療的ケアが必要な子どもたち(人工呼吸器や吸引器などの医療機器を使用している児童)は2万人以上。さらに、医療的ケア児が成人した「医療的ケア者」は、数万人を超えるといわれています。
地震による津波や、大雨災害、洪水からの避難を余儀なくされたとき、これらの「医療的ケア児者」が家族の力だけで避難するのは限界があります。ベッド・車いすに加え、人工呼吸器とそのバッテリー(蓄電器)など、命を維持するために必要最低限の装備だけでも数十キロの重さになり、避難時間の猶予がないときは、家族以外の人々の手も借りて、地域の方と協力することが重要に。
今回は、日赤の福祉施設「ひのみね(*)」内にある徳島県医療的ケア児等支援センター(以下、医ケアセンター)が行う災害時の避難計画サポートや地域と連携する取り組みについてご紹介します。

*徳島赤十字ひのみね医療療育センター

備えなきゃ、でも、何から手をつければ?
そんな私たちの手を取ってくれたのは…

【インタビュー】
徳島県医療的ケア児等支援センター(徳島赤十字ひのみね医療療育センター内施設)
利用者、宮北英樹(みやきた ひでき)さんの母

宮北敦子(みやきた あつこ)さん

英樹が急性脳症にかかり、脳死の診断(※当時の法制度上は「脳波による脳死」)を受けたのは1歳7か月。夏らしい晴天が続いた8月下旬のことでした。その日、英樹は、朝からお布団の上でごろごろ。いつもは目が覚めるなり元気いっぱい、活発に動き回る子なので「何か変だな、病院に行っておこう。」と小児科へ。前日に風邪っぽい様子はあったものの、その時点ではそれほど熱もなかったのです。しかし、小児科で受診の順番待ちをしている間に様子が急変。高熱でもないのに、眼振(がんしん。黒目が左右に揺れる状態)が激しくなり、慌てて看護師さんに伝えると看護師さんも英樹の様子に驚き、医師をすぐ呼んでくれて診察してもらい入院となりました。入院直後は、身体が波うつようなけいれんがあり、すぐに一般病棟からICUに変わりました。二日後、小児科の先生から「英樹君は脳波による脳死です。お母さんも希望を失わないようにすることが必要です。でも、覚悟もしておいてください。」と告げられました。

 前日まで元気に遊ぶ普通の子だったのに、原因も分からず急性脳症を発症して、二日で脳波による脳死判定。そのままICUに入院、人工呼吸器などにつながれ、今にも消えそうな命の灯を必死につなぎとめる……。私も病院に泊まり込み、どんなに疲れていても眠ることもできず、奇跡を待ち続けました。そして1か月後。英樹は自発呼吸をはじめました。脳症により脳は著しいダメージを受けたものの、命は助かったのです。そこから、英樹の命を守るための生活が私たち家族の日常になりました。

 阪神淡路大震災、東日本大震災と、大きな災害が起きるたびに、もし自分たちも被災したら?と不安になり、十数年前には市役所で避難の相談をしました。重度の障害があって寝たきりの子を受け入れてくれる避難先は?そう尋ねたら、市の職員の方も少し困った様子で「……まだ、決まっていません」。後から知ったのですが、市町村ごとに障害者の避難所の受け入れ体制は違っていて、高齢者の避難先はあるものの、障害者の受け入れ想定がなかったり、コミュニティセンターのような施設でも人工呼吸器が使える非常用電源がなかったり、障害者福祉の防災は地域によって大きく差があるそうです。徳島県は南海トラフ地震の津波被害が広範囲で予想されているので、自分たちで何とかしないと、と思いましたが、でもどこから手を付けていいか、何をどう備えればいいのか、呆然として時間ばかり経って・・・。避難リュックや飲料水などは用意しましたが、気が付くと災害への「備え」自体を、あまり考えないようになっていました。

 そんなとき、医ケアセンターから「個別の災害支援である個別避難計画を作成しませんか」と声を掛けていただいたのです。医ケアセンターと相談しながらまとめた個別避難計画には、英樹に必要な痰の吸引や経鼻栄養、人工呼吸器や非常用バッテリーなど、避難する際の装備一式の扱い方や避難の段取り、家の近所の地図を使った安全な避難ルートが詳しく書かれ、家族以外が見ても、ある程度の流れがわかるようになっています。また、大事なのは、十数種類にもなる英樹の薬の情報。どのタイミングで何を飲ませるか、個別の注意事項などが詳しくまとめられていて、初めて英樹を看る医療関係者の方も迷わず対処できます。そして、こういった個別避難計画のほかに、この地域で避難サポートをしてくれる事業者と話をつないでくれたり、医ケアセンターが市役所へ掛け合って、英樹が入れる避難所には人工呼吸器が使えるガス発電機を設置してくれることになりました。うちには90歳を超える高齢者もいますし、私たち夫婦も70代ですので、もし大きな災害が起きたとしたら本当に絶望的な状況になったかもしれませんが、地域の力もお借りして何とかなりそうだと、希望を見出すことができました。

 今、英樹は意識レベルが下がってきて、表情もなくなっています。それでも、私たち家族は、にこにこ笑ってくれた英樹の思い出を心の支えに、できるだけ長く一緒に生きていきたい。私の一番の願いは、この子が亡くなる日より1日多く、私を生かしてください、ということ。だから災害が起きても無事に乗り越えられるよう、「備え」もアップデートしていきたいと思います。

英樹さんが通学した小学校の先生の努力によって、笑う・喜ぶなどの意識の表出がどんどん現れた時期もあった。二十歳を過ぎ、容体悪化で自発呼吸が難しくなり鼻口マスクの人工呼吸器を装着、その後、さらに呼吸状態が悪化し気管切開を実施し、現在は人工呼吸器を装着している

「自助の限界」を知ってほしい
あなたの地域にも、
助けを求めている人がいます


徳島県医療的ケア児等支援センター(医ケアセンター)職員

渡部尚美(わたなべ なおみ)

宮北さんは、ひのみね(徳島赤十字ひのみね医療療育センター)でリハビリや生活介護を利用され、在宅では訪問看護などの支援を受けています。でも、主たる介護者はお母さんでお父さんの協力を得て24時間介護されています。また、お母さんは、英樹さんにとって最善のケアの方法を独自に作り出されていて、私はこれを「母なりケア」と呼んでいますが、その努力と工夫には心から頭が下がります。医ケアセンターでは2年前から「災害デイキャンプ」と名付けた医療的ケア児者の防災イベントを実施して、医療的ケア児者とその家族、行政、教育関係者、施設周辺の方にも参加していただいています。併せて、医療的ケア児者の災害時の支援を実施しています。具体的には、市町村や関係者と連携し個別避難計画作成と避難訓練です。英樹さんも市町村や支援者、地域住民のかたと避難訓練を実施する予定です。実際に避難訓練を実施し、さらに個別避難計画の見直しを図ります。

 私は看護師で、日赤救護班のこころのケアチームの一員として、東日本大震災後の被災地に入りました。大きな地震に見舞われた被災地は道路もボコボコ、車いすや重たい医療器具を移動させるのは困難な状況でした。そして、避難先に行ったら、医療的ケア児者が使えるような電源がない。これを見たときに、やはり地元である徳島の医療的ケア児者とその家族のことを考えずにはいられませんでした。これは家族だけで避難するのは不可能だし、避難先では電源も確保できないかもしれないということを、当事者のご家族に気づいてもらわないといけない。特に一番お世話をしているお母さんの意識を変えなければ、と。その思いが後押しとなり、昨年に作成した「災害時対応ブック~在宅で医療的ケアを必要とする方へ~」です。こちらは徳島県のWEBサイトにも公開されていますので、ぜひ他の地域の方にも参考にしていただければ。
また、ほぼ同時に取り組みを始めた一人一人の状況に合わせて作成する「個別避難計画」。これは、徳島県内のとある市町村で実施している避難訓練の内容を参考にさせていただいています。その市町村では、医療的ケア児者の家族が集落の方々の協力を得て、避難する際には地域の消防団の方が駆けつける。その地域から犠牲者を一人も出さないように、という意気込みで村の人々は訓練していました。やはり、本当に災害が起きたとき、行政には限界があります。行政や市町村にすべて任せるのはさすがに無理があります。だから、自助が必要になってきますが、その自助も「自分たちでどう備える?災害情報をどう判断してどこに避難する?」ということだけではなく、地域とつながって助けてもらえるようにしておくことが大切なんです。「ここに、医療的ケア児者がいます」、それを地域の方々に知っておいてもらうことと、平時の何もないときからよい関係を築いておくのです。私たちは、そういう関係作りのきっかけも支援できるように、と、いろんなところとつながるようにしています。

災害対策は地域づくりです。医ケアセンターは、これからも医療的ケア児者とその家族が地域で安心して暮らせるように支援していきたいと考えています。

ひのみねの災害への備え(避難訓練の様子)