今年7月、東京都内で開催されたフローレンス・ナイチンゲール記章の授与式にて、日本赤十字社名誉総裁である皇后陛下から春山さんに記章が授与されました。授与式の詳細は、赤十字NEWS9月号でお知らせします。
日航機墜落事故から40年 ご遺体「修復」に従事した看護師の思い
1985年8月12日、群馬県の御巣鷹山に524人を乗せたジャンボ旅客機が墜落。死者520人という犠牲を出し、戦後史に残る大惨事となった日航機墜落事故。同事故から40年となる今年、事故後の救護活動に従事した看護師・春山典子さんが、世界各国の看護師の中から顕著な功績のある者に授与される「第50回フローレンス・ナイチンゲール記章」の受章者に選ばれました。
現場の上野村に到着した日赤救護班
事故当時、日赤群馬県支部の看護婦長を務めていた春山さんは、奇跡的に助かった4人の生存者を病院に搬送するヘリコプターにも同乗し、看護にあたりました。また、日赤から派遣された救護班154班、延べ1033人の職員が1カ月半の活動を行う中で、看護責任者として先頭に立ち、日赤に限らず全ての看護師の活動を統率し、看護師らを鼓舞し続けました。
この事故において日赤救護班が従事した活動は、遺体の運び込まれる体育館の中で、激しく損壊した人体の検視・縫合介助、洗浄、そして、身元確認や遺体引き渡し時の家族への対応といった、通常の医療・看護業務とはかけ離れたものでした。
顔だけで個人を識別できたのは1割程度ともいわれる遺体は、事故の衝撃で切断・分離、あるいは焼損し、泥にまみれて、無残な姿となっていました。春山さんたち看護師は、遺体がその家族に引き渡される前に、皮膚や頭髪を洗浄し、できる限り元の形に近づけるように「修復」しました。
遺体の検視が行われた体育館の入り口
連日の猛暑で体育館内は40度を超え、異臭が立ち込める中で黙々と続けた「修復」と、そのときの思いを、春山さんは次のように振り返ります。
「看護師の皆さんにお願いしたのは、目の前にあるのが体の一部であっても、大切な一人の人間として扱うように、ということ。従事した看護師は、延べ1008人。その4割弱は赤十字ではない病院・団体から派遣された看護師です。それでも皆さん、職務を全うしてくれました。
延々と続く、つらく悲しい作業。その作業中も、同じ体育館内で、身元確認の遺族の深い悲しみが、ひしひしと伝わってくる。号泣、失神、激しく怒りをぶつける…。私があの異常事態をどうにか切り抜けられたのは、生存者の2人の子どものおかげです。
病院にヘリで搬送する際、8歳の女の子は意識を失い、体温が下がり、真夏なのに毛布でくるまないといけない危篤状態。一刻を争うのに、報道の方々が何重にも取り囲んで行く手を阻み、ヘリに乗せられない! 私は頭がカァッとなって、彼らに大声で怒鳴り、道を開けさせました。ヘリの中で点滴と注射、酸素マスクを着け…女の子は少し意識を取り戻し、『どこから来たの?』という質問にも答えられるように。あぁ、助かった、助けることができた…!と。
この経験、このときの2人のことを思い出せば、どんなことにも耐えていけると思いました。2人から生きることの素晴らしさ、尊さを教えられました」
壮絶な状況下で、あまりにも多数の死と向き合い続ける春山さんを救った、子どもたちの生命の輝き。一方で、この活動に携わった看護師たちの多くは活動終了後にPTSDに苦しめられることになり、春山さん自身も、心に深い傷を負いました。
「一時は人の声、物音、活字などすべての外的刺激に拒否反応を起こしました。寝ていてもうなされ、大声を上げることも…」(春山さん)
当時の作業メモや記録は全て残してある。「看護師だけじゃない。警察も役場の人も、どれだけ大勢の人が、あの現場に関わって大変な思いをしたか…。これはその証しだから、捨てられないの」と、春山さん
時間と共に落ち着きを取り戻しても、夏になると心身が不調になる、その繰り返しの中で、墜落事故のことを語るのが難しいときもあった、春山さん。しかし今、春山さんは、亡くなった一人一人の供養となるように、そして、過酷さを極めた業務に自らを奮い立たせて立ち向かった人々の思いと真実の姿を世に残すため、広く語り継ぐ活動を行っています。
なお、この日航機墜落事故をきっかけに赤十字看護師たちが生み出したのが、後に「整体」と呼ばれる、激しく損壊した遺体の修復法です。
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