80年前、当時の米国大統領・トルーマンが、核兵器を「人間に使用する」という命令を下した。このことが、人類史上最大の問題だと感じています。トルーマンはその命令の前に、複数の軍部のトップに相談していました。その中の1人、後の米国大統領、当時は連合国軍最高司令官だったアイゼンハワーは「日本はすでに敗戦している。原爆の使用は不要だ」と、政治的・人道的な観点で反対しました。そうした反対の声があっても、核兵器は使用されたのです。
核兵器を開発した科学者・オッペンハイマーは、核兵器がもたらした残虐な被害を知り、自責の念に駆られ、亡くなるまで苦しんだと言われています。しかし、トルーマンが後悔の念を抱いたという話は聞いたことがないです。むしろ、戦争に巻き込まれるアメリカの若者を救った、戦争を早く終結できた、と終戦後も主張した…。ここに、私たち人類が向き合うべきテーマがあると思います。
2歳で被爆。奇跡的に助かりながらも漠然とした不安を抱えていた少年時代
1943年に長崎で生まれた私は、2歳2カ月のとき、爆心地から2.7kmほど離れた自宅で被爆しました。当時の記憶はありませんが、爆風で家が崩れ落ちる中、2階で寝ていた私も瓦礫に埋もれましたが、母が救い出してくれ、運よく助かったそうです。わが家は祖父の代から医師の家系で、父は長崎大学原爆後障害研究所(原研)の初代内科教授を務めるなど、生涯被爆者医療に心血を注ぎました。
私自身は、幸い健康被害もなく小・中・高と過ごしながらも、同じ年代の被爆者たちに白血病やがんが見つかる現実に、ふとしたときに「もしかしたら、いつか自分も…」と頭をよぎり、漠然とした不安は、医学生として専門知識を身につけるまで続きました。
医師として、原爆被害による深刻な病と闘う被爆者に向き合う一方で、「被爆の不安」を抱く人々への対応にも苦慮しました。爆心地から遠く離れた距離にいたのに、「自分も被爆した」と信じて疑わない方や、遺伝的影響が生じることは科学的に証明されていないにもかかわらず、どんなに説明しても不安を拭いきれない被爆二世の方々が診療に訪れます。
最初は根気よく医学的に大丈夫と説明をしていましたが、なかには「あなたはヤブ医者だ」と捨てぜりふを残して病院を後にした患者さんも。途中からは諦めました。私も被爆者として、彼らが抱く不安は十分理解できました。そんな患者さんには、まず彼らの不安を受け入れることを心がけていました。
被爆者には、幹細胞のDNA損傷という生涯にわたる障害が残されますが、がんなどを発症する確率は低く、皆が、がんや白血病で苦しむわけではないのです。しかし、発症の恐怖はくすぶり続ける。現在では全ゲノム解析という遺伝子レベルで影響の有無を調べる方法がありますが、それでも明確な答えが出るとは限らず、放射線の被害は、体と心の両方に見えざる影を落とし続けます。
国境を超えての深い対話が核兵器のない世界の第一歩に
被爆体験をつづった『長崎の鐘』で知られる永井隆博士は、私の父の患者でもあり、幼少期に家族ぐるみで付き合いがありました。彼が残した言葉が、私の胸に深く刻まれています。永井博士は「敵国の人のことをもっと知り、愛せばよかった」と語り、それを「隣人を愛しなさい」というメッセージで伝えました。戦争になる前には、お互いに理解し合える段階が必ずあるはずなのです。
2016年、オバマ大統領が広島訪問後に、広島・長崎の原爆被害を「核戦争の夜明けとしてではなく、道徳的な目覚めの始まりとして知られるべきだ」と語りました。私は、この先、人間が倫理的な歯止めが効く人類に成長できるかが重要だと思っています。その歯止めが働く背景には、他国や他者への共感と理解があるでしょう。これから未来を担う若い世代に、まずはそこから始めよう、と伝えていきたいです。
1945年8月6日に落とされた原子爆弾によって、広島赤十字病院は大破するも類焼は免れ、被爆者の治療拠点となりました。戦後、病院の敷地内に世界初の原爆被爆者専門病院「日本赤十字社広島原爆病院」が設立され(1956年)、1988年に2病院が統合、現在の広島赤十字・原爆病院となったわけです。広島、そして同院の知見を頼り、海外から視察や訪問が後を絶ちませんでした。その背景には、世界各地で原子力発電所が建設されるようになり、また、数多くの核実験が実施されたことも関係しています。
私は、1985年に起きたチェルノブイリ*原発事故の後の健康影響調査にも協力し、避難した被ばく者たちを診察しました。これは国際原子力機関(IAEA)のプロジェクトで、メンバーは日本人・カナダ人・ユダヤ人・オーストラリア人の多国籍チーム。当時のソ連は社会主義国ですが、ゴルバチョフの「ペレストロイカ(改革)」政策により、ある程度の情報公開と外国の調査団の受け入れがありました。しかし、世界には、あまり情報が公開されていない原子力関係の事故は他にも存在します。
今の世界は、「核兵器の傘」が実際に突き付けられていて、その力を誇示する者に誰も文句が言えなくなってしまっています。世界が一致団結して、それはダメだと本気で抑えにかかればよかったのに、それをしないまま、中には力を誇示する者から利益を得ようとする者もいる。このこんがらがった世界の問題をどうしたら解決できるのか、私に答えは見出せません。
しかし、例えば赤十字国際委員会が誰かの利益や思惑など一切関係なく「赤十字の7原則」を絶対的判断基準として行動するように、この世界もそういう仕組みになれたら少しはおかしな方向に進もうとする流れを変えられるかもしれない。大切なのは想像力です。ガバナンス(管理)が強すぎて人を救えないような想像力が欠如した統制ではなく、こんな危機があったらどう動くか、と想像力を持って確実に人を救うための選択を、世界が目指せたらいいのに、と考えています。
(左)土肥医師が撮影した「石棺の中のチェルノブイリ原発」
(右)1990年、チェルノブイリ原発事故後の現地調査のIAEAメンバーと土肥医師(右から2人目)
(左)日赤は1991年4月からチェルノブイリ原発事故の被ばく児童や医療関係者を7回にわたり招聘。広島、長崎両赤十字原爆病院などで検診・研修を実施した
(右)1999年9月30日、茨城県東海村で放射性物資がもれ、国内で初めて臨界事故が発生、2人が死亡し、667人が被ばくした。日赤茨城県支部は翌10月1日、水戸赤十字病院内に被ばく線量の測定と健康相談の救護所を開設。翌日、広島赤十字・原爆病院と長崎原爆病院からも放射線技師を中心とする救護班が現地に入り、5月まで健康相談を行った