『星のように、命は輝く』少女が伝える献血の大切さ
6歳で川崎病を発症し、血液製剤の投与などの治療を経て元気を取り戻した、れいなさん。その後彼女は、企業でのプレゼンテーションや学校の自由研究を通して献血の大切さを訴え、川崎病の支援活動をする読売巨人軍の大勢投手とも対談しました。
今回は、ご家族とれいなさんのインタビューを通して、闘病中の様子や献血への思いをご紹介します。
小学校進学を目前に なんの前触れもなく発症した川崎病
今年の春に中学校に入学したれいなさん。部活動がスタートしたり、得意のタイピングの練習に励んだりと、希望いっぱいの中学生活をスタートさせた彼女ですが、これまで壮絶な闘病生活を二度も経験してきました。
最初に彼女を襲った病気は、川崎病。主に乳幼児に多く発症し、全身の血管に炎症が起きて、さまざまな症状が現れる原因不明の病気です。症状が現れたのは、2018年11月のとある休日。6歳の誕生日を祝った翌日でした。「首が痛い」と訴える彼女を救急外来に連れていった母、ななさん。
「おたふく風邪かな?くらいの気持ちで病院に連れていき、熱も出てきたので解熱鎮痛剤をもらいました。そのとき、たまたま診察した医師が川崎病に詳しく、“ちょっと気になる。通常の受診時間で血液検査を受けてほしい”と」。
翌日、再び受診して血液検査した結果は「即入院」。体内の炎症を示す数値が異常に高く、川崎病の事例を多く見てきた主治医から、「重症化する可能性がある。帰宅しないでください」と告げられたのです。
「本人は解熱剤も効いて、ぴんぴんして元気。それなのに、まさかの入院という事態に私も愕然としましたが、一緒に連れてきていた生後6カ月の弟を義母に託して、慌てて入院の準備をしました」(ななさん)
本格的に治療がスタート 血液製剤が回復の決定打に
入院直後から急激に病状が悪化。壮絶な闘病が幼いれいなさんを待ち受けていました。川崎病の治療には、献血血液から製造される「免疫グロブリン製剤(血液製剤)」が有効ですが、投与に至るまでに紆余曲折が…。
「最初は首の痛みだけだった症状が、どんどんひどくなっていきました。ただ、治療の決定打になる免疫グロブリン製剤はある一定の症状が出ないと投与できないため、2日間は熱で震えながらベッドに横たわる娘を見守ることしかできない状態。ようやく投与が始まったときは、その薬に希望を託す気持ちと、どう転ぶか分からない不安が入り混じった心境でした」(ななさん)
治療では、一緒にステロイド剤も投与されました。れいなさんの炎症の数値があまりにも高く、この炎症を抑えないと重篤な状態になる可能性があったためです。しかしステロイド剤によって、れいなさんはみるみるうちにムーンフェイス(ステロイド剤の副作用で顔全体が過度にむくむ)になり、目も開けられない状態に。
「薬による症状だと分かっていても見るに堪えなくて。励ましてあげたいのに、涙が止まりませんでした」と、ななさん。
一方れいなさんも、そのときの光景をはっきりと覚えています。
「ママが私の好きなシールを買ってきてくれたのに、見えたのは一瞬で、目が急に開かなくなって。うれしかったシールも、パパやママの顔も、どちらも見えなかったけれど、ママの泣き声だけは耳に残っています」(れいなさん)
退院し、会いたかった弟さんを抱きしめる、れいなさん
免疫グロブリン製剤の投与後、血液の数値も正常に戻り、ほどなくして退院。自宅での療養と経過観察となりましたが、このとき、ななさんは大きな決断を迫られました。
「れいなが楽しみにしていた、保育園の卒園発表会が間近に迫っていました。しかし、川崎病の治療で服用しているアスピリンの影響で、インフルエンザに罹患すると脳症に至るリスクがある、と医師から警告されていて…。また、アスピリンは、けがをしたら血が止まりにくい作用がある、というのも不安でした。でも、いつまでも家に閉じ込めてはおけません。できる限りの感染対策とけが予防を心がけて、登園させることにしました」。
こうして1月末から保育園に復園。コロナ禍前から、マスクとアルコール消毒が、れいなさんの日常になりました。
(左)「外では常にマスク、こまめに手指のアルコール消毒、家に帰ったらすぐ服を脱いで入浴、など家族全員が感染対策を徹底していました」(ななさん)(右)どこにいくにもマスクが必須、でも祖母の家ではマスクを外して庭遊びができた
孤独だった二度目の入院生活 星だけが、心を癒やしてくれた
小学校に入学してからも、細心の注意を払っていたれいなさんに、もう一度試練が訪れたのが、小学校2年生のとき。今度は「IgA血管炎」の疑いがあり、再び入院生活を余儀なくされました。ななさんは、当時をこう振り返ります。
「激しい腹痛と嘔吐があり、腸の動きを止める必要がありました。絶食をして、点滴だけの入院生活。コロナ禍で面会も制限され、孤独で辛かったと思います」。そのとき入院中の病室の窓から見えた景色を、れいなさんは鮮明に覚えています。
「夜、病院の隣に立つマンションの窓に、女の子とお父さんの楽しそうな影が見え、つらくなりました。でも、夜空に目を向けたら、たくさんの星が輝いていて。病院のベッドの上から、星ばかり見ていました」(れいなさん)
あの輝いている星は何だろう、と興味を持ち、夜になると星を眺めるのが入院中の癒やしになったそう。このことがきっかけで、「天文学者になりたい」という将来の夢も芽生えたと言います。
また、孤独に耐えた入院生活で、れいなさんは泣きながら、家族に、こう訴えました。
「みんな知らないんだ、学校にいったり、家族とお出かけしたり、
病気で苦しんでいる人のために 自分の経験を通して献血を訴えたい
「闘病の経験を、ママの会社でプレゼンしてみない?」。れいなさんが小学校6年生のある日、ななさんからの提案がありました。
「会社の総会のテーマが“挑戦”。れいなは病気を克服して、夢や目標に挑戦できているけれど、病気が治らなかったら、かなわなかったこと。その経験を通して、大人に伝えられることがあるんじゃない?」。
この提案に、「自分を助けてくれた献血の大切さを伝えよう!」と、れいなさんも奮起。
ななさんが勤める会社の総会で、多くの社員を前に思いを伝えると、その姿に心を打たれ、涙する人もいたとか。
オンライン参加した社員からも、「勇気を出して自分の経験を話してくれてありがとう!」「絶対献血にいきます!」と続々とメッセージが。このプレゼンをきっかけに15人の社員が献血に足を運び、その輪は今でも広がっているそう。
夏休みには、プレゼンの内容と結果をまとめて、学校の自由研究として発表しました。
れいなさんは、「病気を経験して、ごく普通に生活できることこそ、幸せなことだと思うようになりました。これからも、そういう生活ができない人の助けになることに、関わっていきたいです」と思いを語りました。
ななさんの会社の総会で、献血を呼びかけるプレゼンを行う、れいなさん。右の画像はプレゼンのスライド画面の一部
小学校4年生のとき、突然、「ヘアドネーションしたい」と宣言したれいなさん。6年生の春、2年間伸ばした髪を寄付した
読売巨人軍・大勢投手も川崎病支援 れいなさんも動画で共演
2023年のワールドベースボールクラシック(WBC)でも優勝に貢献した読売巨人軍の大勢投手も、幼少期に川崎病を患い、克服した経験の持ち主。「川崎病に苦しんでいる人のために、社会貢献活動をしたい」という大勢投手の思いがきっかけで、今年3月24日から、日赤・読売巨人軍・日本川崎病研究センターが協働で「大勢川崎病支援プロジェクト」を立ち上げました。
現在公開されている動画では、大勢投手が闘病当時のことを振り返る他、同じ経験を持つれいなさんとの対談の様子も収められています。
献血血液から造られる血漿分画製剤(けっしょうぶんかくせいざい)
れいなさんを救った免疫グロブリン製剤は、血液の成分「血しょう」から抽出されるたん白質から造られる血漿分画製剤の一つです。
献血のご案内「愛のかたち献血(P.6)」で
説明しています
【川崎病と日本赤十字社の医師】
川崎病は、1961年に日本赤十字社中央病院(現日本赤十字社医療センター)に勤務する小児科医・川崎 富作(かわさき とみさく)さんが発見し、1967年に医療専門誌に論文を発表したことから注目されるようになりました。川崎さんは川崎病の研究を続け、1990年に日赤医療センターを定年退職した後も日本川崎病研究センター理事長として川崎病に関する情報を収集・発信。2020年、老衰のため逝去。享年95歳でした。
- トップページ
- 赤十字について
- 広報ツール・出版物
- 赤十字NEWSオンライン版
- 『星のように、命は輝く』少女が伝える献血の大切さ