はじめて物語

赤十字病院のはじまり

橋本綱常の写真

橋本綱常

博愛社設立後に集った有志の一人に、橋本綱常(はしもとつなつね)がいました。橋本は、西郷隆盛の盟友だった橋本左内の末弟で、ヨーロッパでも医学を修め、西南戦争で官軍軍医として活躍し、陸軍軍医総監となりました。橋本の提唱で、救護看護婦の養成の場として、病院設立を決定。1886(明治19)年、東京・麹町に本社事務所と共に「博愛社病院」を開設し、橋本が初代院長に就任しました。

病院は、1887(明治20)年に博愛社が日本赤十字社と改称したことを受け、日本赤十字社病院となり、1891(明治24)年に渋谷に移転しました。現在の名称は、日本赤十字社医療センターです。

現在、全国に91の赤十字病院があり、各地域の中核として地域医療に貢献すると共に、災害時には国内外に医療チームを派遣しています。

赤十字ボランティアのはじまり

看護婦たち

篤志看護婦人会

赤十字の創始者アンリー・デュナンは、その著書「ソルフェリーノの思い出」の中で、自ら無償で、傷ついた兵士の救護に当たった女性たちのエピソードを紹介しています。手足を切断され、阿鼻叫喚の苦しみに耐える多くの兵士の世話をしながら、イタリア語で「人は、みな兄弟である」(Tutti fratelli=トゥッティ・フラッテリ)、「我は母なり」(Sono madre=ソノ・マードレ)とデュナンに言った婦人のことも。1880年の博愛社社員総会で、社員(現在の会員)の一人、ハインリッヒ・シーボルトが演説を行い、ヨーロッパの赤十字では、貴婦人方がボランティアとして活動している、と報告しました。

1887(明治20)年6月2日、日赤最初のボランティアグループ「日本赤十字社篤志看護婦人会」が発足しました。有栖川宮妃菫子(ありすがわのみやひただこ)殿下を初代の幹事長とし、鍋島栄子(なべしまながこ)などの元大名夫人や、旧幕府、新政府双方の重鎮の夫人らが参加し、文字通り「中立」の赤十字ボランティア組織として、かつて戊辰戦争や西南戦争で敵同士だった人々が、赤十字の旗の下に集ったのでした。最盛期には3万人の会員を擁し、看護婦の職務の尊さと誇りを知らせるのに大きく貢献しましたが、第二次世界大戦後まもなく解散し、米国赤十字社の助言を得て、新しい赤十字奉仕団が誕生しました。

現在では、全国各地に約3000の奉仕団が日頃から、そしていざという時の頼もしい存在として活動し、「赤十字」を支えています。

災害救護のはじまり

災害救護の様子

磐梯山噴火災害救護

1888(明治21)年7月15日の磐梯山の大噴火により、ふもとの村に土砂や火砕流が押し寄せ、500人以上の死傷者と、広域の住家や田畑に被害をもたらしました。戦時救護を想定して誕生した当時の日赤には、自然災害に対する規定はありませんでしたが、時の皇后で、後の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の内旨を機に、救護員3人を現地に派遣し、後に佐野常民(さのつねたみ)も合流しました。活動内容は、負傷者慰問、浴衣50反を送り、50円を分配したほか、延べ15人の救護員を派遣し、扱った患者は延べ105人、救護費用は191円でした。これが、日本赤十字社最初の災害救護活動です。その後、災害が発生すると、日赤は救護員を現地に派遣するようになり、災害救護は日本赤十字社の活動の柱となっていきました。現在、全国に約7800人の救護要員と救護備品などが整備されています。長年の経験と工夫の積み重ねは、今も留まることなく継続しています。

看護師養成事業のはじまり

看護師養成の様子

濃尾地震災害救護

赤十字の創始者アンリー・デュナンは、その著者「ソルフェリーノの思い出」の中で、クリミア戦争でのフローレンス・ナイチンゲールの活躍等を例に挙げ、訓練された看護人を確保する重要性を訴えました。そのことから、初期の赤十字国際会議において、救護活動に従事する女性の活躍が報告されていました。

日本赤十字社が看護師の養成を開始したのは、1890(明治23)年4月です。その前年に制定した「看護婦養成規則」に基づき、看護法・救急法・治療介補などの専門教育が始まりました。日本赤十字社で養成され、活動的で心のこもった看護ができるように教育を受けた看護師は、度々災害救護・戦時救護でめざましい活躍をしました。各地の支部でも看護師の養成を開始しましたので、全国的に教育方針を統一するため、「日本赤十字社看護学教程」(1896年)という独自の教科書を刊行しました。

現在、全国各地の6看護大学、1短期大学、9看護専門学校、1助産師学校等が養成事業を行っています。

国際活動のはじまり

軍艦エルトゥールル号の写真

エルトゥールル号

1890(明治23)年9月16日夜、日本への表敬訪問を終え、帰路の航海についていたトルコ(オスマン・トルコ帝国)の軍艦エルトゥールル号(2,444トン)が紀伊半島南方の熊野灘で暴風雨に見舞われ遭難し、オスマンパシャ提督以下の乗組員587人が死亡する大惨事となりました。生存者は69人だけでした。遭難現場に近い和歌山県大嶋村の村民は、水兵たちの遺体収容や生存者の介護など、不眠不休の救護活動を行いました。生存者の大半は、急を知らされたドイツの軍艦ウルフ号により神戸に移送され、治療を受けることになりました。

日本赤十字社が9月19日午後、東京から医師2人、看護婦2人を神戸に派遣すると、一行は神戸の和田岬検疫所を仮設病院に選び、宮内省の医師らと共に負傷者の治療・看護にあたりました。治療を終えたトルコの水兵たちは、翌年、明治天皇の命により派遣された「金剛」と「比叡」の2隻の軍艦でトルコに無事、帰還しました。

1985年のイラン・イラク戦争において、国境を閉ざされ、動けなくなった日本人らのために、トルコは特別航空便を出して救出してくれました。「情けは人の為ならず」「困ったときはお互い様」。その後も阪神・淡路大震災(1995年)、トルコ大地震(1999年)、東日本大震災(2011年)など、相互に支援し合う関係が続いています。

社会福祉事業のはじまり

約50名の児童の写真

虚弱児童の健康増進活動

日本赤十字社の社会福祉事業の先駆けは、結核との闘いと深い関係があります。人々の命を奪っていた結核は、世界中がその予防と撲滅に取り組む最大の健康問題でした。1907(明治40)年の第8回赤十字国際会議で「結核の予防撲滅に参加すべき決議」が行われると、日本赤十字社は1911(明治44)年、結核予防撲滅事業を社業の中に位置づけ、1913(大正2)年に「結核予防撲滅準則」を定め本格的に取り組むことになりました。こうした背景から、特に児童生徒の健康増進をめざし、1914(大正3)年に京都支部が天の橋立海岸で虚弱児童を対象にした夏季保養所を開設し、約50人の児童を受け入れました。児童を対象にした結核予防活動は、当時としては大変先駆的なものでした。

日本赤十字社の本格的な社会福祉事業への取り組みは、1949(昭和24)年に身体障害者福祉法が制定されてから厚生省(現在の厚生労働省)、都道府県と協力して義肢の巡回修理、開眼検診等の援護を行ったのが初めてです。その後、時代の要請に応じて、乳児院、保育所、養護施設、虚弱児施設、肢体不自由児施設、特別養護老人ホームなどを運営するようになりました。

青少年赤十字活動のはじまり

大正15年少年赤十字の雑誌

雑誌「少年赤十字」 第1巻表紙

青少年赤十字の先駆けは、第一次世界大戦時にカナダやオーストラリアの児童・生徒が、各国の赤十字社の協力で、兵士やその家族に慰問品を送る活動を実施したことでした。1920(大正9)年に、ジュネーブで開かれた第1回赤十字社連盟総会では、第一次世界大戦後に設立された連盟の事業のひとつとして「青少年を組織すべきこと」を決議し、1922年の第2回連盟総会において具体的な目的、組織形態などを決議し、「少年赤十字」が始まりました。

国内最初の少年赤十字団の結成は、1922(大正11)年、滋賀県の守山小学校とされています。その後、全国に相次いで加盟校が増えていきました。第二次世界大戦後、日本赤十字社再建のために派遣された米国赤十字社の顧問団の助言を受け、新たな「青少年赤十字」が新しい学校教育制度のもとでスタートしました。現在、14,435校(幼稚園、保育所、小中高、特別支援学校含む)が加盟しており、清掃活動、老人ホームの慰問、一円玉募金、リーダーシップ・トレーニングセンター(リーダシップの養成を目的とした集合研修)などのさまざまな活動を通じて、赤十字の心が育まれています。

救急法等の講習事業のはじまり

講習会の様子

救急法の講習会

健康と安全のための講習会は、1920(大正9)年の第1回赤十字社連盟総会の決議により健康増進と疾病予防活動が赤十字の平時活動として始められたことに端を発しています。当初は「衛生講習会」として健康教育、保健指導が行われ、1926(大正15)年、講習会実施要綱で講習科目に救急法と家庭看護法が初めて取り上げられました。昭和に入り、衛生看護講習会、救急法講習会、水上救助法講習会の普及が進みましたが、第二次世界大戦中にほとんどが中止されてしまいました。

戦後は、これらの講習が「三大講習会」として平時の重点事業のひとつとして普及されました。現在は、「救急法」「水上安全法」「雪上安全法」「健康生活支援講習」(家庭看護法の講習内容を改訂)「幼児安全法」の5つの講習が行われています。

血液事業のはじまり

東京血液銀行の写真

日本赤十字社血液銀行設立

世界初の輸血の成功例は19世紀半ば、英国で行われたものとされています。1921(大正10)年からは、イギリス、オランダ、オーストラリアで血液事業が開始され、1948(昭和23)年の赤十字国際会議において「血液事業に関する赤十字の役割」が提唱されると、各国が血液事業に乗り出しました。それは2つの世界大戦において「輸血ができていれば、多くの命を救えたはず」という国際社会の悔しい思いからの出発でした。

日本赤十字社は、米国赤十字社からの輸血用器具の寄贈や指導援助を受け、1952(昭和27)年日本赤十字社中央病院の中に日本赤十字社血液銀行東京業務所を開設し、血液事業を開始しました。しかし無償の献血の考え方は未だ根付いておらず、また買血(売血)が「黄色い血」として社会問題になっていました。

こうした中、輸血用血液は献血により確保することを1964(昭和39)年の閣議で決定し、国、地方公共団体、日本赤十字社が一体となり、血液事業が本格的に始まりました。こうして1974(昭和49)年には輸血用血液は全て献血で賄われるようになりました。

赤十字WEBミュージアムサイト

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