戦後76年 いま、改めて考えたい核兵器のこと

 この夏、日本では平和の祭典とも言われるオリンピックが開催されていますが、今から遡ること76年前の夏は、平和とは程遠い状況にありました。1945年8月、世界で初めて原子爆弾(以下、原爆)が投下されたのです。今年、2021年1月に核兵器禁止条約が発効して初めての原爆の日を迎えるにあたり、今号では改めて赤十字の視点からこの問題について考えます。

ヒロシマ、ナガサキで何が起こったのか 被爆者の声

 1945年8月6日に広島、同9日に長崎に原爆が投下されました。投下直後から5年の間に死亡した人は約34万人と推計されています。そしてそれよりも遥かに多くの人々が被爆に伴う耐え難い苦痛を経験してきました。被爆者の経験を知らずして、核兵器について語ることはできません。


広島の被爆者は、爆発後の様子について次のように描写しています。


「市の中心部では、通りや公園にいた多くの人々が、焼けつくような熱波に襲われ、次々と死んでいきました。死を免れた人は目を背けたくなるほどひどい火傷を負って、虫のように這いつくばってもだえ苦しんでいました。民家も、倉庫も、何もかもがすべて、この世のものとは思えない力でなぎ倒されたかのように、跡形もなく消えてしまいました。路面電車はまるで重さがないかのように浮き上がり、遠くに放り出され、車両も線路から吹き飛ばされました。あらゆる生き物が、激痛に苦しむ姿のまま石のように固まってしまったのです。」(“The Hiroshima Disaster – a Doctor’s Account” )

画像 被爆後の街並(広島)


 長崎で被爆当時11歳で父親を亡くした男性は、戦後70年の時を経て、自身の経験と思いをこう語りました。


「道端の家は一つ残らず焼け落ちていました。倒れずに残っていた木や電柱も焼け焦げていました。道路には瓦礫が散らばっていて、その中に死体がたくさん混じっていました。その死体は、顔も、腕も、足も、変色して膨れ上がっていて、黒いゴム人形のようでした。父の工場は、焼け焦げた鉄骨が残るだけの無残な姿に変わり果てていました。そこで目にしたのは、他の遺体と同じように、膨れ上がり、焦げた父の遺体でした。これが、いつも一緒に話をしたりご飯を食べたりしたあの父だと思うと、なおのこといやな気分になりました。もうそれ以上父の遺体を見ていられなくなって、私は兄に、『さあ家に帰ろう、お父さんの遺体はここに置いて行こう』と言いました。 今思い返すと、それは正しいことではなかったと思います。私たちは父の遺体を見捨ててしまいました。原爆で家族や親しい人を亡くした誰もが、これと似たような体験をしたと思います。あのたった1発の原爆が、およそ7万 4000 人の命を一瞬にして奪い去ったのです。」(『原爆が投下されて:被ばく者の声』 )

その時、赤十字は

 日本赤十字社(以下、日赤)は、被爆直後から救護活動を開始しました。広島では奇跡的に生き残った救護員や医師たちが、自らも放射能の脅威に晒されながら被爆者の救護にあたりました。また、原爆投下の翌日からは県外の日赤医療班も広島、長崎に入り、各所に救護テントを設けて救護活動を展開しました。当時の想像を絶する救護体験を綴った証言の一部をご紹介します。(以下、原文ママ)


「前庭に押しかけて来ている被爆者で一杯、次から次へ担架で運び込まれているも、次々に死亡、全く地獄絵図さながらの状態であった。」(広島)(『鎮魂の譜 日本赤十字社広島県支部戦時救護班史』 )


「被爆者のだれもが激しい爆風と強力な放射熱のため、頭髪は焼きちぎれ、全身熱傷、顔面流血、体はガラス、木片、鉄の破片などが刺さり、痛ましい姿。なかには、力尽き果て冷たい姿となった母親の上に横たわる幼な子、そのなまなましい姿、この世のものとは思えない地獄の様相を呈していた。道路上に横たわる負傷者までは手が届かず、救護所まで歩いて来る患者だけを応急処置するのが精いっぱいだった。」(長崎)(『閃光の影で:原爆被爆者救護 赤十字看護婦の手記』 )


「被爆による火傷には蛆が蠢(うごめ)き、医療器具も乏しいので割箸二本をピンセット代りにしてつまみ出すが、なかなか取りきれない。」(広島)(『きのこ雲:日赤従軍看護婦の手記』 )


「その後も、死者は次々と増加し、その死者をダビに付すのも私達の仕事であった。」(広島)(『鎮魂の譜 日本赤十字社広島県支部戦時救護班史』)


「患者の看護に当たりながら、私たちも白血球測定をしては、あと二、三カ月の生命かも知れないと不安な気持ちを高めた。」(広島)(『きのこ雲:日赤従軍看護婦の手記』)


「原爆の後遺症に悩みながら、世の偏見を逃れるために被爆者であることを隠し、ひっそりと罪を犯した者のように生きている人たちがいた。私の班員たちの中にも、そんな人たちがいた。」(広島)(『きのこ雲:日赤従軍看護婦の手記』)

画像 被爆直後の広島赤十字病院

画像 包帯を巻く看護師

 また、広島では当時赤十字国際委員会の駐日首席代表だったスイス人医師マルセル・ジュノー博士が、外国人医師としていち早く被爆地入りしました。ジュノー博士は、調達した15トンもの医薬品を持参し、被爆者の被害調査にあたるとともに人々の治療にも従事しました。被爆後の広島では医薬品不足の状態が続いたため、提供された医薬品は大変貴重なものでした。ジュノー博士の尽力により救われた人々は、数万人にのぼると言われています。

画像 広島平和記念館南の緑地帯にあるジュノー顕彰碑 (C) ICRC

 広島、長崎の赤十字病院は現在も原爆に起因するとみられるがんなどの病気を抱える被爆者の治療を継続しています。2014 年4月から2015年3月の間に、被爆者として公式に認定された人で治療を受けたのは、広島赤十字・原爆病院では4657人、日本赤十字社長崎原爆病院では7297人にのぼりました。長い年月を経てもなお、苦しんでいる人々が大勢いるという現実を私たちは忘れてはなりません。

核兵器廃絶を目指して

 世界には未だに1万3,000発以上の核兵器が存在するとみられ、その多くが直ちに使用できる状態にあると言われています。これらの核兵器の大多数は広島、長崎で使用された原爆よりもはるかに破壊力が大きく、誤って使われるリスクの高まりや、地球環境に不可逆的なダメージを与える影響なども指摘され始めています。
 いま、人々の間では核兵器に対する差し迫った危機感は薄らいでいるのかもしれません。しかし、核兵器が70年以上使用されていないという事実は、核兵器が将来使用されないことを保証するものではありません。世界に核兵器が存在する以上、意図的、理性的な判断に基づくかどうかにかかわらず、事故や誤動作、ハッキングなど様々なきっかけによって核兵器が再び爆発し、多くの人々が犠牲となる危険は存在し続けるのです。
 赤十字は、救護団体、そして国際人道法の番人として、「核兵器は禁止すべき無差別兵器である」と終戦直後から表明し続け、以下の理由を主張しています。

① 万が一核兵器が使用された場合、その犠牲者、被害に人道的に対応することは不可能であること
② 核兵器の使用は国際人道法の定める理念と両立しないこと

 この2つの理由は被爆者が経験してきた苦しみと赤十字の経験に裏付けられたものです。赤十字は、核兵器のない世界の実現の原動力が被爆の経験の中にあることを信じ、被爆者の声を着実に次世代へと受け継いでいくことに努めます。今年1月に発効した核兵器禁止条約でも「Hibakusha」という文言がそのまま使われ、被爆者の苦しみこそが同条約の存在意義であることが強調されています。この条約の発効を足掛かりとして、これまでに同じく条約で禁じられてきた、生物兵器、化学兵器、地雷、クラスター弾などの無差別兵器と同様に、核兵器も「非人道的で、使用すべきではない兵器である」と人々の認識を変えていくことが期待されます。
 被爆者が経験した苦しみを二度と繰り返さないために、戦後76年のいまを生きる私たちにできることとは何か、改めて考えてみませんか。

画像 核兵器廃絶を訴えるマークと平和を願う折り鶴 (C) Louise Cooper/オーストラリア赤十字社

参考文献:

ICRC ”The Hiroshima Disaster – a Doctor’s Account” (2005)
https://www.icrc.org/en/doc/resources/documents/misc/hiroshima-junod-120905.htm

ICRC 『原爆が投下されて:被ばく者の声』(2015)
https://e-brief.icrc.org/issue/nuclear-weapons-the-human-cost-ja/part-1-hibakusha-tell-their-stories/?lang=ja

日本赤十字社看護婦同方会広島県支部『鎮魂の譜 日本赤十字社広島県支部戦時救護班史』(1981年)

日本赤十字社長崎県支部『閃光の影で:原爆被爆者救護 赤十字看護婦の手記』(1980年)

雪永政枝・他『きのこ雲:日赤従軍看護婦の手記』(1984年)

その他、詳しくはこちらも:赤十字国際委員会駐日代表部ホームページ「核兵器禁止条約発効:特設ページ」

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