あの日から15年 -いのちをつなぐ静岡の記録

東日本大震災

 平成23年3月11日(金)午後2時46分。
 国内観測史上最大のマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、北海道から関東までの広い範囲で強い揺れを観測しました。
 この地震により、東北地方から関東地方の太平洋沿岸部に想定外の大津波が押し寄せ、壊滅的な被害をもたらしました。
 さらに原子力発電所の事故による被害も甚大で、現在も多くの方が不自由な生活を余儀なくされています。

 震災による死者・行方不明者は約2万人、建造物の全壊・半壊は約32万戸。
 この地震による被害額は、約16兆9千億円ともいわれています。

静岡県支部の活動

 静岡県支部では、地震の発生当日から医療救護活動を行うための救護班を編成し、被災地へ派遣しました。
 被災地では、延べ2,100名以上の方の診察を行いました。
 東日本大震災の被災地は広範囲に及んでいますが、静岡県支部の救護班が活動したのは、岩手県釜石市及び大槌町と宮城県石巻市です。

 釜石市では、津波被害を免れた場所に臨時の救護所を開設し、24時間体制で診療を行いました。
 釜石市に隣接する大槌町は、津波後に発生した火災の影響で、一面焼け野原となっていました。
 地震発生から2日後の3月13日、静岡県の救護班が医療チームとしては初めて、大槌町に入りました。
 津波を逃れ、公民館などに避難していた方のために巡回診療を行ってきました。

 石巻市では、避難所や集落の巡回診療が主な活動でしたが、活動は徐々に変化していきました。
 医療ニーズの変化に伴い、被災者の精神面を支援する、こころのケア活動も実施してきました。

記憶を遺す記録 (所属施設と役職名は当時のものです)

静岡赤十字病院 救急科副部長 中田託郎
 地震発生から9時間後、行き先も分からぬまま被災地へ向けて出発。到着しても救護の場は見つからず、焦りだけが募った。
 津波にのみ込まれた街を前に、班長として仮設救護所の設置を決断。求められたのは重症対応ではなく、失われた“日常の薬”だった。
 「災害は来る」。現場での即断と責任の重さを胸に刻み、この経験を次へつなぐことを誓った。

浜松赤十字病院 看護師長 浅岡みち子
 救護班を離れて10年。不安を抱えながらも「東北を放っておけない」と手を挙げた。
 長い道程と多くの時間をかけてようやく釜石に到着。さらに情報のない大槌町へ、自衛隊に先導され凍結した山道を進んだ。山火事、崩れた街、言葉を失う光景。
 それでも医療を待つ人がいる。避難所には薬を求める人々が集まり、東北弁で寄り添う声がわずかな安心につながった。
 十分に応えきれない悔しさを胸に、看護の原点と赤十字の使命を改めて心に刻んだ。

日本赤十字社静岡県支部 救護係長 橋本茂昭
 発災直後、救護班コーディネーターとして出動。しかし行き先も、医療ニーズも分からない。陥没した東北道を進み、盛岡に着いても情報はない。
 焦りの中で求められたのは、最前線での判断だった。安全を見極め、釜石・鈴子広場にdERU設置を決断。迷いはあったが、その選択が道を拓いた。
 指示がなくとも考え、動く。情報の重みと組織の力を胸に、この教訓を次へつなぐ覚悟を新たにした。