赤十字ゆかりの地

国境を越えた 博愛の心が ここにあった

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捕虜を人道的に待遇し、「奇跡の収容所」と呼ばれた板東俘虜収容所。
赤十字ゆかりの地は、この地で展開された人道的な史実を現代に伝えています。

板東俘虜収容所とは・・・

板東俘虜収容所は第一次世界大戦中の大正6年(1917年)、徳島県板野郡板東町(現在の鳴門市大麻町)に開設されました。
当時、日本はドイツの租借地であった中国の青島(チンタオ)を攻撃。敗れたドイツ兵約5,000人が捕虜となり、日本各地の収容所へ送られていました。
このうち四国の徳島、丸亀、松山にいた約1,000人が大正9年(1920年)までの約3年間を板東俘虜収容所で過ごしました。

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当時の板東俘虜収容所入口(鳴門市ドイツ館提供)

板東俘虜収容所での暮らし

厳しい待遇が当然の収容所の中で、この収容所では松江豊寿所長をはじめとした職員たちが捕虜たちの人権を最大限に尊重し、 できるかぎり自主的な運営をみとめたため、自由で快適な収容所生活を楽しむことができました。
彼らは、収容所内に80軒余りの商店街やレストラン、音楽堂、別荘などの施設を造りました。
また、文化活動も盛んで、とりわけ音楽活動ではベートーヴェンの「交響曲第九番」のアジア初演をはじめ、複数のオーケストラや様々な楽団が100回を超える演奏活動を行いました。

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収容所内で菓子店を営むドイツ兵捕虜(鳴門市ドイツ館提供)

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ドイツ兵捕虜たちが結成したオーケストラ(写真はエンゲル・オーケストラ)
(鳴門市ドイツ館提供)

ドイツ兵捕虜と地元住民の交流

地元住民たちも最初は突然新しくできた施設と1,000人ものドイツ兵に驚いていました。 しかし、板東はもともと四国88ヶ所霊場の一番札所がある土地柄、「お接待」を重んずる風習があり、ドイツ兵捕虜たちを友好的に受け入れていくようになりました。
また、ドイツ兵捕虜たちもそれに応えるように地元住民たちに自分たちのドイツ文化を広く伝えました。 牧畜、パンや洋菓子作り、西洋野菜栽培など現在も多くのものが受け継がれています。
やがて、地域の人々から「ドイツさん」と呼ばれるほど、交流が広がり友情も芽生えました。

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ドイツ兵捕虜たちとふれあう地元の子どもたち(鳴門市ドイツ館提供)

仲間を思い、チャリティー演奏会を開催

捕虜たちが板東へ来て1年後、スウェーデンから赤十字の代表者が板東俘虜収容所の視察に訪れました。
そこで、捕虜たちはロシアのウラジオストックで収容され、辛い思いをしている仲間のことを知ります。 彼らはそんな仲間たちを思いやり、救済のためのチャリティー演奏会を開催しました。
彼らが作ったその演奏会のポスターには、「人道・博愛」の象徴である赤十字マークが印刷されていました。

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捕虜たちが行ったチャリティー演奏会のポスター

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ポスター訳

当時、厳しい待遇が当然であった日本の収容所において、捕虜たちが他国に収容されている仲間を思いやり、 救済するための行動が実践できたのも、板東の捕虜たちが心豊かな環境が提供されていたからです。

人道的な史実を後世に伝える

この人道的な史実を基に平成23年9月、日本赤十字社徳島県支部では 板東俘虜収容所跡地(ドイツ村公園)を「赤十字ゆかりの地」とし、チャリティー演奏会のポスターをモチーフとしたモニュメントを鳴門市の許可を得て同公園内に設置しました。

日本赤十字社徳島県支部では、このモニュメントを通して、人間愛に満ちた板東俘虜収容所での人道的な出来事を広く世界に発信し、後世に語り継いでまいります。

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赤十字ゆかりの地モニュメント 正面

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赤十字ゆかりの地モニュメント 裏面

題字 近衞 忠煇 書
日本赤十字社 元社長
国際赤十字・赤新月社連盟 元会長
建立年月日 平成23年9月8日
建立 日本赤十字社徳島県支部
設置協力 徳島県赤十字有功会