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東日本大震災活動レポート

生活再建

3年目の「3.11」 宮城を訪ねて②

14/03/12

さんさん商店街の特設ステージでは毎週末にさまざまな催しも開催

 巨大な津波が町を襲い、死者・行方不明者789人、町内の建物の約6割が流出する被害を受けた宮城県南三陸町。同町志津川地区にある「南三陸さんさん商店街」は平成24年2月に完成。復興の担い手として力を合わせていこうと、飲食店など約30の事業者が集まった仮設商店街です。この日は週末に降った雪の影響で、駐車場には所々ぬかるみも残っているあいにくの状況でしたが、観光客もたくさん訪れていました。

(写真:さんさん商店街の特設ステージでは毎週末にさまざまな催しも開催)

息子さんご夫婦とさんさん商店街で理容室を営む宮川弘子さん

「励まし合って、頑張ろう」

 「何十年って付き合いのある馴染みのお客さんも戻ってきてくれましたし、今は復興関連の仕事の方々も足を運んでくれます」。こう語るのは、さんさん商店街で理容店「BARBERミヤカワ」を営む宮川弘子さんです。「お客さんとはやっぱり震災の話。『お互い生きてて良かったねえ』って。それから、『この先どうするの?』って話になるんです」
 現在、南三陸町では「防災集団移転促進事業造成工事」として市内の高台各所に造成地を設けています。住宅はもちろん、店舗なども移転の対象となっており、「さんさん商店街」も集団で高台移転する計画です。宮川さんは「それぞれの店舗が『もちつもたれつ』で協力しながらやってきました。皆でわいわい集まることで、とても励まされます。仮設商店街は残りあと3年。高台移転はその後になりますが、後を継ぐ息子夫婦ともそこで頑張ろうという話をしています」

増える生活困窮者の方からの相談

 しかし、人口の流出に歯止めがかからないなど不安も少なくありません。震災前に約1万7600人だった南三陸町の人口は、3年の間に3000人近く減少し、現在は1万4600人余り。「仕事がないですから、町から出て行く人が絶えません」と宮川さん。「お隣の登米市にある仮設住宅に暮らしていますが、その仮設住宅も空き家が出はじめている状態です。残っている入居者の中には『私はずっとここでいいわ』という人もいますが、本心は違うのかもしれません」
 そうした“取り残され感”も漂う中、地域の民生委員も務める宮川さんにはさまざまな相談が寄せられているといいます。「ご高齢で病気がちの方が多く、収入がないことから生活に困窮されている方からの相談が少なくありません。また、震災後の環境変化も影響したのか、精神を病んでいる方の中には症状を悪化させている方が少なくないんです」と、苦しい現状を語ります。

震災があったことで多くの人と出会うことができたと語る坂本礼子さん

「若い人たちに魅力ある復興を」

 女川町の総合運動公園内の仮設住宅に夫と暮らす坂本礼子さん(45)の2人の息子さんは愛知県と宮城県内で働いています。
 坂本さんは、“女川は復興が早い”という声に対してこう語ります。「暮らしている私たちからすると遅く感じるんです。山を切り崩さないと移転できる高台がないわけですから、しようがないんですが…。仕事も水産業だけでこの先もやっていけるのか。若い人たちの働く場所を考えた復興が大事じゃないかなって思っています」

(写真:震災があったことで多くの人と出会うことができたと語る坂本礼子さん)

「新しい出会いを大切したい」

 坂本さんが住む仮設住宅のすぐ隣に災害公営住宅が建設されています。4月には坂本さんご夫婦とご主人の両親も災害公営住宅に引っ越す予定です。「狭い仮設では、息子たちが帰ってきてもくつろげませんでした。部屋が広くなるのはうれしいです。ようやくちゃんとした住所が持てるようになります」と安堵の表情を浮かべます。
 実は、坂本さん一家は、震災の年の10月まで自衛隊のテント村で生活しました。避難所がいっぱいで入れなかったため、自衛隊が提供したものです。トイレは外に設置されたところまで行かなければならず、雨が降れば一苦労のテント生活でしたが、一緒に生活した方々や自衛隊の皆さんとの付き合いは今も続いているといいます。「みんな不思議なくらい信頼し合えて。震災で私たちは多くのものを失いましたが、新しい出会いもありました。これからもそれを大事にしていきたいですね」

3年目の「3.11」はシリーズでお伝えしています
>>3年目の「3.11」 岩手を訪ねて①
>>3年目の「3.11」 福島を訪ねて③
>>3年目の「3.11」 福島を訪ねて④