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東日本大震災活動レポート

生活再建

3年目の「3.11」 福島を訪ねて③

14/03/12

浪江町への立ち入りは、住民であっても事前の届け出が必要。町内に入る道路に設けられた検問所は午前9時から午後4時までしか開いておらず、立ち入り時間は5時間までに制限されています

 「もう帰れないんだろうな」「私は浪江町に帰りたい」――福島第一原発事故により町内全域が警戒・避難区域に指定され、全町民の避難を余儀なくされた浪江町。現在は、「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」の3区域に再編され、町内各所の除染作業も進められています。町民からは故郷への帰還の期待がある一方で、諦めの声も少なくありません。揺れる原発避難者の思いを探りました。

(写真:浪江町への立ち入りは、住民であっても事前の届け出が必要。町内に入る道路に設けられた検問所は午前9時から午後4時までしか開いておらず、立ち入り時間は5時間までに制限されています)

町に戻れる「3年後」はいつくるのか?

 浪江町から南へ数十キロの距離にある福島県いわき市。避難している約2300人が借り上げのアパートなどで点在して生活しています。このため、町民同士が集う機会が少なく、生活環境の変化に伴うストレス問題も指摘されています。こうした中、自分たちのこれからを一緒に考えていこうと結成された自治会が「なみえ絆いわき会」です。会長を務める大波大久(おおなみ ともひさ)さん(65)は「間もなく事故から3年ですがまだ帰れず、またいつ戻れるのかも分かりません。町は荒れる一方です」と肩を落とします。
 避難先での永住を決め、浪江町への帰還を諦めた人もいます。なみえ絆いわき会の東海林功(しょうじ いさお)さん(72)もその一人です。「もう帰れませんから。私はいわき市内に家を買いました」と語ります。「3年前に『3年後には戻れる』と説明を受けましたが、まだまだです。今も『3年後には戻れるようにしている』と説明を受けますが、どうなるのかわかりません」と苦しい胸の内を明かします。

震災後、一度も自宅へ戻っていないという浪江町住民のアパート

放射線に対する正しい情報の提供を

 住民が避難した町内は、今も震災直後のまま。沿岸部には津波被害がそのまま残されています。家屋は野生化した家畜やいのししなどに荒らされその惨状は言葉を失うばかりです。
大波さんは「住民のみんなも一度や二度は自宅を見に浪江に足を運んでいます。でも、荒れ果ててしまった我が家を見る度に悲しさが溢れてきて、浪江から出る際には涙を流しながら帰ることになりますから。みんなわざわざガソリン代を使ってまで浪江に戻る気にはならないんですよ」と実情を語ります。
 一方で浪江に帰る希望をつなぐ人もいます。同じなみえ絆いわき会の吉田勲さん(73)は
「私は浪江町に戻りたい。そして、戻った人たちのためにも町内会の役員をやりたいと思っています」と帰還とその後について思いを口にします。

(写真:震災後、一度も自宅へ戻っていないという浪江町住民のアパート)

大波さんの自宅には「平成23年3月」のカレンダーが掛けられたまま。「このまま残しておきたい」と語ります

 大波さんは「先日も勉強会に出て、どういうところに放射能が残りやすいかが分かりました。何が安全なのか正しい情報が必要です。国が年間の被ばく線量として問題ないと示してくれれば、浪江に帰ろうという人も出てくると思います」と訴えました。

(写真:大波さんの自宅には「平成23年3月」のカレンダーが掛けられたまま。「このまま残しておきたい」と語ります)

3年目の「3.11」はシリーズでお伝えしています
>>3年目の「3.11」 岩手を訪ねて①
>>3年目の「3.11」 宮城を訪ねて②
>>3年目の「3.11」 福島を訪ねて④

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