特別企画

救い護る人~日赤救護員養成のあゆみ~

土門拳《赤十字看護婦 担架》1938年 / 土門拳記念館所蔵

日本赤十字社は、いざというとき現場に駆けつける5000人の救護員を備え、大規模災害時には全国6万人以上いる日赤職員がさまざまな形で救護活動を支えています。

自然災害、大事故、戦争などの非常事態が起きてからでは遅すぎる。一人でも多くのいのちを救うためには、救護のプロフェッショナルを育て、日ごろから訓練や研修を積み重ねておくことが重要。

その使命のもとに育成された人が、日赤の「救護員(救い護る人)」です。

日赤は救護活動を効果的に行うため救護班というチームを編成します。現在の1班6人を構成する救護員は、医師、看護師、事務職員で、必要に応じ薬剤師、助産師、こころのケア要員などが加わります。救護班は交代しながら被災地に留まり、医療救護活動を中心に息の長い支援を切れ目なく展開しています。

日赤は1877(明治10)年の西南戦争時に誕生して以来、つねに不足する救護員を確保すべく努力を重ねてきました。その一つが、救護員を自ら養成するために病院を設立したこと。

日赤が必要とする救護員とは、いのちを救う知識・技術を備えたうえで、傷ついた人の苦痛や苦悩に寄り添い、支援に徹することができる人間です。厳しい救護の現場で自らを律し、一人ひとりの尊厳をまもる行動がとれる救護員を養成するため、訓練や研修を積み重ねています。

日赤が100年以上にわたり養成をつづけているのは、そのときに生きている人たちの「救いたい」という思いに支えられてきたから。

救護員養成の担い手は、あなたと私です。

参考 日赤の救護活動について

日赤の救護活動は多岐にわたり、医療救護、こころのケア、救援物資の備蓄及び配分、血液製剤の供給、義援金の受付及び配分などがあります。この特別企画では、主に医療救護を担う人材(救護員)を日赤が育ててきた足跡をたどります。

2024(令和6)年1月現在、日赤の救護員は5231人、487班が常備救護班として、いつでも駆けつける体制をとっています。(登録救護員は8077人。登録救護員とは、日赤に救護員として登録されている人員のこと)

救護活動は、医師、看護師、主事(事務職員)、助産師、薬剤師、救護活動を統括する災害対策本部員、血液供給員、救急車や船、無線や濾水機などを操作する特殊救護員、医療ニーズを把握し医療と資材の調整業務を担う日赤災害医療コーディネーターなど多様な専門家が、救護班や現地医療を支える現地救護医療班などチームを組んで行っています。

とくに規模の大きい災害時などには、全国の支部、病院、福祉施設、血液センターなどで日々勤務する6万7403人の職員が被災地の救護活動を支えます。

*専門の職名については、可能なかぎり現在一般に使用される呼称を使用しています。

注目ポイント

『ソルフェリーノの思い出』(1862年)

アンリー・デュナンは、著書『ソルフェリーノの思い出』のなかで「誰からも救ってもらえない負傷兵」の存在に言及し、「敵味方の区別なく救護する有志の人々を、平和で穏やかな時代に、各国に組織しておく方法がないものか」と平和なときの備えの重要性を国際社会に訴え、赤十字を創設しました。

そのときデュナンが想定していた救護を行う有志の中には、クリミア戦争で活躍したフローレンス・ナイチンゲールのように看護に関する専門知識と技術を持つ人が含まれました。

デュナンとナイチンゲールに深く影響を受けた佐野常民は、西南戦争(1877(明治10)年)の際に博愛社(日本赤十字社の前身、以下日赤)を立ち上げ、医師、看護人(患者の身のまわりの世話や運搬など医師を補佐する人。多くは男性)、事務員など、なんとか延199人を集め、およそ1429人の戦傷病者の手当を中心とした救護活動を行いました。

初の救護活動を行った佐野が痛感したのは、戦争の現場で、傷ついた兵士を救うにたる技術と資質を備えた人員を、急ぎ集めることの難しさでした。そこでヨーロッパ事情に精通した陸軍軍医総監・橋本綱常らの知恵を借り、日赤は独自の救護員養成を行うことになります。

アンリー・デュナン

フローレンス・ナイチンゲール ©ICRC Archives

養成中の日赤救護員(1891年濃尾地震)

日赤は西南戦争後、デュナンが提唱した「平和なときに備える」べく、社員という名の救護員を募集します。しかし、日赤の活動を支えようと集まった社員は、必ずしも救護ができる医療技術を持つ人とは限りませんでした。

そこで1886(明治19)年、日赤は自ら救護員養成を行うため東京に病院を設立し、1890(明治23)年に養成を開始。対象は主に傷病者の手当ができる女性救護員(看護婦)で、修業期間はおよそ3年。学費や一部生活費などを日赤が支援するかわりに、卒後は2年間の日赤病院勤務と、日赤の戦時召集などに20年間応じることを求めました。

1896(明治29)年には、日赤初の全国で統一された救護員のための教科書『看護学教程』を発行。治療や患者への寄り添い方に関する看護学の基礎知識に加え、いかなる状況下でも相手を慈しみ、忍耐強く自らを律し、勇敢で冷静であることなど、救護員となるための心がまえを示した「救護員十訓」を含みました。

さらに救護に必要な医師確保のため東京大学医学部などと協力して医師を救護員として登録し、1892(明治25)年には規則を定め、修業期間1年の養成を院内で開始しました。また当時女性救護員の社会的認知が低かったため、男性救護員(看護人)の養成も行いました。加えて1893(明治26)年からいくつかの日赤支部が地元病院に養成を委託しはじめました。

救護員養成教科書『看護学教程』

養成課程修了式(前列中央左が佐野常民)

日清戦争で救護活動

日清戦争(1894-95(明治27-28)年)が勃発。軍は「対戦国がジュネーブ条約未加入で戦場の秩序が保てない」とし、身の安全保障上、女性の海外戦地への派遣を禁止します。日赤は、急ぎ男性救護員(医師、看護人、調剤員など)を募集し713人を海外に派遣。また養成中の看護婦生徒の修業期間を短縮して国内の軍病院に派遣し、大陸から搬送される負傷者を約1年5カ月間、救護しました。活動した日赤救護員(男女)総数は延1553人となるも、もっと多くのいのちを救うために救護員確保と養成を本格的に地方支部にうながします。

1901(明治34)年の日本赤十字社条例により日赤は軍の幇助機関と定められ、軍の衛生任務を担う義務が生じました。これが全国に救護員養成所や病院設立が広がる動きをあと押しします。

日清戦争での活動が認められ、女性の海外派遣が許されると、日赤は女性救護員(看護婦)養成に注力し、財政等の負担が大きい医師養成を1903(明治36)年に廃止。一方で男性の看護人養成は1933(昭和8)年まで継続しました。

宮城支部養成所

沖縄支部養成所落成式(1910(明治43)年)

包帯の巻き方を実習中

日清戦争救護の際、全国から救護員が集まったことで養成内容の地域差が表面化したことから、全国統一教科書『看護学教程』を発行。さらに日露戦争(1904-05)時に不足する救護員数をおぎなうため日清戦争と同じく3年の修業期間を1年に短縮。救護員の熟練度の差が問題になりました。

救護員の任務遂行能力の差をうめるべく1909(明治42)年に救護員養成の必須科目を定めるとともに、15年使用した教科書の内容も刷新し、1910(明治43)年に『甲種看護教程』、つづいて『乙種看護教程』を発行しました。

教程には、包帯の巻き方やけが人の運び方などの実務に加え、戦争の犠牲を最小限におさえるための国際法(ジュネーブ条約)の解説、陸海軍の規則、日赤独自の救護員心得(修身)が含まれます。

戦場という過酷な現場で、負傷兵を救い、自らの身の安全を守り効果的に活動するためには、行動をともにする軍人と救護班の仲間のいのちを守るための基礎知識と、規律ある行動や心がまえを学ぶことが必須でした。

改定教科書『甲種看護教程』

病院船で活動する男性救護員

日赤産院で助産師養成

1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦では、日本赤十字社は病院船2隻を派遣。加えてロシア、フランス、イギリスに救護班を派遣。養成所を修了した女性救護員(看護師)が派遣者の過半数を占めました。

1918(大正7)年に大戦が終結すると、世界に平和の機運と変化をもたらします。誕生したばかりの国際連盟は、加盟国の赤十字社設立をあと押ししました。また国際機関としての赤十字社連盟(現国際赤十字・赤新月社連盟)が新たに誕生し、従来の戦時救護とは別に、各国の赤十字社による災害救護や衛生教育の普及などの平時事業を促進しました。

日赤では、これまでも自然災害の被災者救護や病院運営を行っていましたが、国際的な流れを受け、感染症対策、衛生教育、助産など、現在の地域医療や保健につながる平時事業により力を入れるようになりました。

1921(大正10)年には、全国に助産師養成所の設置規則を制定し、自然災害救護のために派遣する救護員の一員として助産師を加えました。これらの取り組みが、1923(大正12)年に発生した関東大震災救護でも大いに役立ちました。

患者食調理実習

第一次世界大戦時フランスに派遣された救護班

養成生徒の本社見学

しかし、平和は長くつづかず1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、日赤は海外戦地と、国内の陸海軍管下におかれた赤十字病院に救護員を派遣しました。

第二次世界大戦では、とくに負傷者の回復を支える女性救護員(救護看護婦)が必要とされ、日赤は甲種・乙種・臨時の3種の養成課程を設定し、養成所の修業年限を短縮しました。

1940(昭和15)年以降、甲種は高等女学校卒業(17歳)以上で修業年限3年(1942(昭和17)年以降2年に短縮)、乙種は高等小学校卒業(15歳)以上で修業2年。また一般看護婦免状所持者に3カ月教育し、救護を補佐する臨時看護婦も積極的に採用。修業期間が短くなっても赤十字救護員の心がまえやジュネーブ条約を学びました。また、男性救護員(救護医員、救護調剤員、救護書記)にも1942(昭和17)年以降年2回・2~4週間の短期講習を行い、息つく間もなく求められる救護に備えました。

この間、国では、1941(昭和16)年看護婦規則を改正し、資格年齢を18歳から17歳に引き下げ、1944(昭和19)年からはさらに16歳に引き下げています。

1937(昭和12)〜45(昭和20)年間に、日赤は養成してきた救護員を海外の戦地に延3万3156人、国内における空襲などの戦災と自然災害救護に延4万4154人派遣しました。

臨時救護看護婦生徒卒業式

救護調剤員(薬剤師)講習を終えて

日赤、GHQ、厚生省を交えて協議

日本は、第二次世界大戦の敗戦国となり、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下におかれ、大きな変化を迎えることになります。日赤も例外ではありませんでした。

日赤の創設以来の第一の目的は、戦時救護のために救護員を養成し、軍の幇助をすることでした。しかし1946(昭和21)年日本国憲法制定により、戦争を放棄した日本から軍隊がなくなり、日赤は幇助する機関を失いました。結果、日赤は、事業の主軸を戦時から平時に置きかえます。

また1947(昭和22)年の災害救助法には、災害時は国に日赤が協力して救護活動にあたることが明記されました。

1952(昭和27)年、日本赤十字社法の公布により、日赤はジュネーブ諸条約にもとづく事業および災害救護、国民の健康増進など広く赤十字の理想とする人道的任務の達成を担う団体として、組織が刷新されました。

加えて、救護員の常時確保の義務と、確保のための医師・看護師・特殊技能者らの養成の義務が明記され、救護員の活動の対象が、戦時救護から災害救護を含む平時の業務に変化していきました。

実習中の看護学生

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導などの結果、1947(昭和22)年に学校教育法が制定。また、1948(昭和23)年に保健婦 助産婦 看護婦法(現保健師 助産師 看護師法)が制定され、看護師・保健師・助産師が国家資格になりました。

日赤もこれらの法にもとづき、それまでの日赤独自の私塾のような位置づけにあった救護員養成所が、教育機関としての看護専門学校や看護短大、看護大学となっていきました。それは、日赤救護員となることを主たる目的とした養成所時代から、あわせて医療従事者として看護師などの国家資格を取得することも目的とする教育機関への転身を意味しました。養成の目的が変化したことは、その後、時間をかけて日赤救護員の養成のあり方に大きな影響を与えます。

日赤短大の学生

河川敷での支部救護訓練(1989年)

戦後、国と日赤が大きく変化する間も1959(昭和34)年の伊勢湾台風をはじめ自然災害が発生するたび、救護員は被災地に駆けつけました。当時の日赤職員(医師、看護師、事務職員等)には、戦時救護や災害救護の経験者が多く存在したため、若い職員は、その背中を見て、実地に学ぶことが多かった時代です。

しかし、年月を経て、救護活動経験の豊富な日赤職員は減りました。加えて専門学校や大学で看護師教育の内容が一般化するなど、さまざまな要因が重なり、各地で定期的な災害救護訓練の実施や救護員養成マニュアルの策定が求められるようになりました。

加えて1995(平成7)年阪神・淡路大震災、2004(平成16)年スマトラ島沖地震・津波、2011(平成23)年東日本大震災と、国内外で未曽有の災害が発生。大規模災害の救護経験を経て、日赤は多様化したニーズに応じるため、被災者のこころのケアや原子力災害への対応を開始。また被災地での時間の経過による要請の変化に応じるための災害医療マネジメントに注目。より専門性の高い救護員を育てるために、新たな研修プログラムを策定することになりました。

担架搬送訓練(1992年)

救護訓練(2008年)

災害対策本部運営訓練

長年にわたる災害救護の経験と看護師養成のなかで醸成された「救護員としての赤十字看護師研修」を参考に、日赤救護員育成規程を2021(令和3)年、制定しました。内容は救護員行動指針と①共通課程、➁総合課程、③専門課程の3段階制の研修プログラム。対象は救護員を構成するすべての職種です。医師、看護師、事務職員、こころのケア要員、災害医療コーディネートチームの救護員が、それぞれの職務遂行に必要な知識、技術、ふるまいを体得することを目指します。

国内だけでなく、海外の救護に派遣する国際救援・開発協力要員を育てるための研修体制も体系化しています。これは国際赤十字の一員として海外での救援に参加を目指す人のための登録・研修制度です。派遣前の安全管理研修と、自身の専門性をより高めるための専門研修を行っています。

日赤が必要とする救護員とは、いのちを救う知識・技術を備えたうえで、傷ついた人の苦痛や苦悩に寄り添い、支援に徹することができる人間です。厳しい救護の現場で自らを律し、一人ひとりの尊厳をまもる行動がとれる救護員を養成するため、訓練や研修を積み重ねています。

救護訓練でdERU(仮設診療所)の運営を学ぶ

令和6年能登半島地震。被災地入りした日赤救護班

日赤は、いざというときの備えとして100年以上にわたり、救護員を養成しつづけてきました。いま、いつでも被災地などに派遣できる救護員を5000人備え、全国の支部、病院、福祉施設、血液センターなどで勤務する6万人以上の職員が、その活動を支えています。

被災地で負傷者や病人を治療する救護員は、医師1人、看護師長1人、看護師2人、事務職員2人の6人1班を基本とした班体制で、交代しながら切れ目のない救護活動を可能とする仕組みになっています。

医療救護活動は、病院内の医療とは異なります。資格があっても現場で通用するとは限りません。日赤は、確かな知識と技術を学び、経験を積み、赤十字の理念にもとづくふるまいを実践できる人間を育て、つねに備えてきました。

「救いたい」と願う多くの人たちの思いが「救い護る人」を育ててきました。「救いたい」と願うあなたと私が、救護員養成の担い手なのです。

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