[ 3.11 あれから10年:第11回 ] 南三陸町、そこで生きる人々の力になるために

シリーズ 『3.11~あれから10年を生きて』 /東日本大震災の発生から2021年3月で10年です。 3月号まで「3.11」から人生を変えた人々の物語を毎月連載します。

南三陸診療所で診察を行っていた頃の櫻田医師(日赤公式YouTube動画より)

公立南三陸病院 前院長 櫻田正壽(さくらだまさとし)さん

 3月11日の午後3時半すぎ、海から400mの距離にある南三陸町・公立志津川病院(後の南三陸病院)に津波が押し寄せた。訪問診療で院外にいた私は、地元の道に詳しい看護師の運転のおかげで津波到達直前に病院に戻ることができ、院内の災害対策本部がある5階まで一気に駆け上がった。

 だがそれが、想像を絶する闘いの始まりだった。志津川病院の入院患者は107人。そのほとんどが、65歳以上で寝たきりか、それに近い状態の方。津波警報を受け、停電でエレベーターが動かない中、病院職員は人力で患者を上階へ運んでいたが、病院に避難してきた百数十人の地域住民も共に上階を目指し、階段は人でごった返した。…患者の運搬は、間に合わなかった。70人近い患者を残したまま、5階建ての4階までが、津波にのまれた。病院職員も3人が犠牲になった。

 津波は1回ではおさまらず、職員たちは津波が来て引く度に救出に向かうことに。救出中に犠牲になることも考え、自分の腕に油性ペンで名前を書く職員もいた。死力を尽くしても太刀打ちできない事態がある…強い引き潮で電動ベッドごと海に流されてしまう患者が目の前にいても救えない…自分たちの無力さに絶望した。

 自衛隊が屋上にホバリングしながら救援に来てくれたのは翌日の昼過ぎ。丸2日かけて石巻赤十字病院に全患者が搬送されるのを見送ると、私たちは瓦礫(がれき)だらけの町へ。それぞれが各地域の救護所に向かうために散って行った。もちろん私も。そこから5カ月間、南三陸町の最後の避難所が閉所するまで、避難所で寝起きしながら仮設診療所で患者を診ることとなった。
 救急治療や手術を行える基幹病院を失った南三陸町の人々。1万5千人もの人々がこの町で暮らしていくために、医療はなくてはならない。医療資材が不足し、冷暖房設備もないプレハブの仮設診療所で、重症者は石巻赤十字病院に搬送して助けてもらいながら、何とかしのいだ。

 翌年の春、赤十字を通して寄せられた海外からの支援により2階建ての診療所が、さらに2015年、台湾の赤十字からの救援金によって入院も手術もできる南三陸病院が完成した。喜ぶ人々の顔を見て確信したことがある。心から安心して暮らせる環境を取り戻す、それが復興だ。医療や教育が整えば、震災で町を離れざるを得なかった人々も戻ってくる。最新の医療設備を整えた新病院は、南三陸の人々の見えない力になった。津波で根こそぎ破壊された町は、日本、そして世界の人々にも支えられ、少しずつ息を吹き返していった。

 発災後、着の身着のまま脇目も振らずに救護活動を続け、一瞬たりともここを離れてはいけないと考えていたが、1週間ほどたってから一度だけ家に帰らせてもらったことがある。実は家族が仙台にいて、私は単身赴任の身。電話も通じない中、ともかく無事を伝えるために帰ると、ニュースで廃虚と化した志津川病院を見ていた妻や娘たちは私が津波で亡くなったと思っていたらしく、とても驚かれた。再会の歓喜に浸ることなく、すぐに南三陸町に戻ってしまったが。意外だったのは、当時、音大に通っていた娘が医者を目指すと言い出したこと。そして彼女は、猛勉強の末に医者になった。
南三陸で医療を続けた私の思いを家族は理解してくれたのかもしれない。

(櫻田医師のメッセージは日赤公式YouTubeでもご覧いただけます)