[ 3.11 あれから10年:第10回 ] 明日は少しでも幸せに...混沌の中で探した光 シリーズ 『3.11~あれから10年を生きて』 /東日本大震災の発生から2021年3月で10年です。 3月号まで「3.11」から人生を変えた人々の物語を毎月連載します。

ビッグパレットふくしま避難所の運営を行っていた当時(写真中央)

福島大学 特任教授  天野和彦さん

「明日は、今日よりも幸せになっていたい。この願いは、全ての人の心にある」

…これは、東日本大震災後、避難所運営をしていたときの私の信条です。

私が「ビッグパレットふくしま避難所」に県庁運営支援チーム責任者として派遣されたのは2011年4月11日。県から指示を受けたのはその2日前です。3.11の震災から1カ月たっていました。それまでは既定通り、町村が避難所を運営していましたが、ビッグパレット避難所は危機的状況に…。その理由は、3000人もの大規模避難所は「ルールや秩序を保つことが困難な場」であり、被災している自治体の職員がそれをコントロールするのは、限界があったからです。
 しかも、避難所でノロウイルス感染症が発生し、4月9日は30数人だったノロの患者が2日で100人を超え、感染対策と運営の立て直しに一刻の猶予も許されない状況でした。

ノロウイルス流行の抑え込みのため、行政の保健師やDMATも避難所に入りましたが彼らの業務ではできないことがありました。感染対策には環境整備が必須、ところが避難所での環境整備とは避難者一人一人と交渉し、彼らの考えや行動を変えてもらうこと。保健・医療の範囲を超えています。

ノロは吐しゃ物が乾燥し粉塵(ふんじん)となって舞うと感染が広がるため、保健・医療チームが徹底した清掃と消毒を行い、私たち運営チームが避難者たちを説得、と役割分担をしました。説得は話すだけでいいと簡単に思われるかもしれませんが、これが難しい。1カ月間生活していた場所から移動するのは獲得した権利を手放すことでもあり、不安ですから、ほとんどの人は動きたがりません。そこで、根気よく相手の不安を取り除きながらメリットを提示するなどして交渉します。この時期、私の活動は「誰もが幸福になりたいのだから」という信念に支えられていました。

大規模避難所には、あらゆる人がいます。中には、ルールに従わない人も、人目もはばからず女性や子どもを不安にさせる行動をする人もいます。私たち運営チームが避難所に入ってから、多くの女性から相談が寄せられ、女性のために着替える場所や女性専門の相談窓口も設けました。相談の中には深刻なものもありました。誰か一人でも「ここで生きていくのはつらい」と感じるなら、それは人権の問題です。運営に携わるようになって気づいたのは、避難所運営は、一人一人の人権と幸福を守る仕事だということ。

不思議なことに、それまでの自分の経験…障害児教育の教師として子どもの人権を考えてきたこと、県の社会教育担当として高齢者から幼児まで世代を超えて人の幸せとは何かを学んだこと、社会教育という分野で行政を超えたネットワークを築けていたこと、それはすべて、この大規模避難所の運営に生かされ、まるでこの大仕事のために、用意されていたように感じました。
 避難所運営を成功させるには、誰か一人の活躍ではなく、保健・医療も運営も避難住民も力を合わせる総力戦が必要でした。この経験で、私のネットワークはさらに広がり、新しい関係を構築する中で、日赤が放射線の被害がある中でも救護活動を行うために定めた「ガイドライン」の作成委員会にも参加しました。そして今、私は「福島という故郷をあきらめず、昨日よりも幸福を感じて生きられるように」と、コミュニティの支援活動に取り組んでいます。