被爆70年特別企画: 守るべきいのちと尊厳⑤

核兵器のない世界へ

爆心地へと駆けつけた救援列車と赤十字救護班(長崎)

「応急処置で最初に一番困ったのは医療救護であった。長崎医大を中心にして、(かね)てより整然たる救護組織が編成されており、有事に必要な薬剤なども十二分に用意されて、大学の鉄筋の倉庫に収められてあったのであるが、肝心の医大自身が一瞬で壊滅してしまったのである」

(永野若松長崎県知事兼日赤長崎県支部長=当時『長崎県警察史 下巻』)

新聞特~1_resized.jpg

焼け野原を黒煙を上げて進む救援列車(写真提供:長崎原爆資料館)

灰燼(かいじん)に帰した長崎市内の医療機能を一刻も早く復旧させるべく、永野氏はすぐに県内はじめ九州各県に救護班の派遣を要請。中には依頼を待たずに救護班を出動させた県もあり、数多くの医師・看護師が長崎入りして不眠不休の救護活動にあたりました。

長崎市内へのアクセスに大きな役割を果たしたのが国鉄(当時)の救援列車です。原爆投下の3時間後には、火災が鎮まらない爆心地近くまで接近し、沿線の後方病院への負傷者搬送を開始しました。

その日のうちに4本が運行され、約3500人を大村湾沿いの諫早、大村、川棚、南風崎、早岐などの医療施設に搬送したとされています。

立ちすくむ間もない救護活動

原爆投下翌日、近隣県からの救護班がさらに増えていきました。その中の一つ、佐賀陸軍病院から派遣された日赤第713救護班は9日深夜に佐賀駅を出発し、10日には長崎市内の道ノ尾駅前等で救護活動を開始しました。

「道ノ尾駅の前の広場の臨時救護所には、真夏の暑い最中に、藁を敷いてその上に大勢の罹災者が寝ている上には、荒むしろが被せてある。それを見て、その悲惨さに、その場に立ちすくんで体がふるえてくる。気をとり直し着換える暇もなく次から次へと懸命に救急処置を行う」

(『真白に細き手をのべて 日赤佐賀支部派遣救護看護婦従軍記録』)

長崎市内から搬送されて来た被爆者たちの悲惨な姿を目の当たりにした救護看護婦たちは、看護衣に着替える時間も惜しんで、濃紺色の制服姿のままで直ちに救護を始めました。第713救護班は15日の終戦の夜の汽車で佐賀へ帰りましたが、「後髪を引かれる思い」だったと記しています。

国際赤十字は2011年、世界の赤十字社が集う国際会議で、核兵器廃絶を世界に呼びかける決議を採択しました。その理由は「もし核兵器が使用された場合、その犠牲者を誰も救うことはできない」という人道的観点によるものです。広島、長崎への原爆投下から70年。核兵器はどう人間のいのちと尊厳を脅かし、人びとはそれにどう立ち向かったのか。

赤十字の歴史の中からひも解いていきます。

関連ニュース