被爆70年特別企画: 守るべきいのちと尊厳②

核兵器のない世界へ

傷を負った赤十字

1945年8月6日、広島市の相生橋を標的に投下された原子爆弾は、橋の南東にある島病院上空600メートルで強い閃光を放ち炸裂。強烈な熱線と放射能、そして爆風が人びとを襲いました。

相生橋のすぐそばにあった日本赤十字社広島県支部は建物外郭を残し職員19人が犠牲となり、爆心地からおよそ1.5キロメートルにあった広島赤十字病院も病院職員や入院患者が死傷しました。生き残った医師や看護師、看護学生たちは、被爆の危険にさらされながら―当時はその事実を知る由もなく―まったくの手探りで救援活動に身を投じました。

当時、広島赤十字病院の副院長であった重藤文夫医師もそうした生存者の一人でした。「目の前にあれだけ苦しめるものがいたら、自分のことは考えられません、どうしたってね」

終わりなき被爆者医療

「原子爆弾の放射能で起こったことがわかっても、直るか直らんかが見当がつかなかった…髪が抜けて坊主になるでしょう、女の子なんかが。娘さんが泣いてくるんですよ、『どうしてくれますか』言って。直るか直らんか、われわれにも経験がない」

原爆が放つ熱線、爆風、そして放射能の複合作用によりもたらされる人体への傷害は原爆症と呼ばれました。しかし、その原因が特定できたからといって、被爆者医療の道筋が示されたわけではありません。現在でも、被爆者の二世、三世にわたる放射能の遺伝的影響は、医学的な研究課題とされています。

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被爆した日赤広島県支部の社屋、爆心地から222メートル

重藤医師は学位論文で放射能と白血病の関係を研究。原爆が投下される約2週間前に広島赤十字病院に赴任、被爆しました。以降、1956年に設立された広島原爆病院の院長を経て、1982年に亡くなるまで被爆者医療にその生涯を捧げました。

「被爆者二世に実際に白血病が起こるか起こらぬかを私どもの時代にはっきりさせておかないと、後生に未解決の問題を残して、われわれが経験した災害の実態を、次の時代の人に、はっきりした形で報告できない。あの時代の人たちはなにをしていたんだということになる。当然われわれの責任ですから、私はそれを痛切に感じるんです」

※文中鍵括弧内の引用文献:重藤文夫、大江健三郎『対話 原爆後の人間』新潮選書、1971年

国際赤十字は2011年、世界の赤十字社が集う国際会議で、核兵器廃絶を世界に呼びかける決議を採択しました。その理由は「もし核兵器が使用された場合、その犠牲者を誰も救うことはできない」という人道的観点によるものです。広島、長崎への原爆投下から70年。核兵器はどう人間のいのちと尊厳を脅かし、人びとはそれにどう立ち向かったのか。

赤十字の歴史の中からひも解いていきます。

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