被爆70年特別企画: 守るべきいのちと尊厳①

核兵器のない世界へ

未知の救護活動のはじまり ~1945年8月6日、広島~

世界で初めて核兵器が使われたあの日、広島の地で赤十字は、これまでに誰も経験したことのない被爆者救護活動を行いました。

救護の矢面に立たされた看護学生

爆心地から1.5キロメートルほどに位置する広島赤十字病院。壊滅的な被害を受けたものの奇跡的に建物の外郭だけが残った病院には白地に赤十字の旗が掲げられ、無数の被爆者を収容しました。

当時、病院の医師、看護師の大半は戦時救護のため各地に派遣されており、その不足を補ったのは看護学生でした。原爆が投下されたのはまさに彼女たちの一日が始まろうとしていた快晴の朝のことでした。

証言― (被爆後)気が付いた時には私は数メートル離れた廊下らしいところに倒れていました…「私は日赤の看護婦の卵だ、日赤の看護婦だ」と身の引き締まるような戦慄感が全身をはしり、「やるぞ、やらなくては」との気持ちで飛び出しました…。

(五條美恵子『ほづつのあとに 殉職従軍看護婦追悼記』より、当時17歳)

未知の被爆者救護

被爆建造物を考える会による『広島の被爆建造物-被爆45周年調査報告書』(1990年)の「広島赤十字病院」の項目に次のような記述があります。

突然の閃光と爆風、そして傷つき半死半生の凄惨な人びとの群れにもパニックに陥らず、そのようなことができたのはなぜでしょうか?

被爆後の広島赤十字病院.jpg

被爆後の広島赤十字病院

「…私は“パニック”を超える力が彼らの中に内在していたことこそ最大の理由であったように思える…すなわちそれは、苦しむ者を目前にした時の医者、あるいは看護婦としての使命感がそれであり、さらにいえばそうしたものさえ超えた人間としての義務、あるいは慈愛がそうさせたのではなかったのだろうか」と金田氏は語ります。

しかし実際には、多くの医師、看護師が不在の中での手探りの治療、不足する医薬品など多くの困難が彼女たちを待ち受けていました。また、看護学生をはじめとする多くの救護者自身も被ばくしていたのでした。

国際赤十字は2011年、世界の赤十字社が集う国際会議で、核兵器廃絶を世界に呼びかける決議を採択しました。その理由は「もし核兵器が使用された場合、その犠牲者を誰も救うことはできない」という人道的観点によるものです。広島、長崎への原爆投下から70年。核兵器はどう人間のいのちと尊厳を脅かし、人びとはそれにどう立ち向かったのか。

赤十字の歴史の中からひも解いていきます。