戦争の記憶を語りつぐ~殉職救護員慰霊碑・看護婦立像

殉職救護員慰霊碑と看護婦立像

日本赤十字社(以下、日赤)の本社社屋(東京都港区)の前庭には、昭和34年の赤十字思想誕生100周年の際、イタリア大使を通じて贈られたソルフェリーノの丘の糸杉の木や、日赤創立100周年(昭和52年)を祝ってギリシャ赤十字社から贈られたヒポクラテスの木(医学の祖ヒポクラテスにちなんだスズカケの木の愛称)など、赤十字ゆかりの木が立ち並んでいます。

そんなみずみずしい緑の木々が生い茂る前庭の一角に、日赤の殉職救護員慰霊碑と看護婦立像が設置されています。日赤本社は毎年8月15日、この慰霊碑と立像への献花を行っています。

この慰霊碑と救護看護婦立像は、日赤創立以来、いくつもの戦地や事変地あるいは災害の現場で救護活動に従事し、殉職した救護員の尊い犠牲を忘れず、その御霊を慰めるため、日本赤十字社創立100周年記念事業として昭和52年に建立されたものです。

慰霊碑には明治27年の日清戦争から第二次世界大戦において戦時救護に服し、殉職した1317人と、関東大震災や集中豪雨災害などの際の救護による殉職救護員9人の計1326人の、名簿と各人の功績を収録した「遺芳録」が納められています。

世界の脚光を浴びた日赤の看護婦

日赤本社前庭

日清戦争が始まる少し前、華族女学校の教師などを勤めた高山盈子(たかやまみつこ)(1843~1903年)は日赤の看護婦取締(現在の総婦長にあたる)に就任しており、開戦2日後の明治27年8月3日、20人の看護婦とともに第1班として広島の予備病院に向かいました。

これが日本の職業看護婦の最初の従軍活動といわれています。

明治37年には日露戦争が勃発。日清戦争の時とは異なり、日赤が明治23年から全国規模で養成を続けてきた看護婦は、その技能を十分に発揮するところまで成長を遂げていたといわれています。

ロンドンで明治42年に開催された国際看護婦協会大会に、日本から初めて参加した萩原タケは、「日本の看護婦の特徴を一言で表すとすれば、それは“規律”です」と表現したといいます。

その後、第一次世界大戦時に派遣された従軍看護婦たちは、語学に堪能で技術的にも優れ、その活躍ぶりは世界的にも脚光を浴びたということです。

69年目の終戦記念日を迎えて

しかしその後、昭和12年の日中戦争を皮切りに始まった第二次世界大戦で、従軍看護婦たちは苦難の道のりを歩むことになります。昭和12年に限っても派遣された救護班は149班、計3,573人に上りましたが、数万人規模の負傷者を前に、十分な救護活動は展開できなかったといわれています。

そのような中で、28歳の若さで伝染病に倒れた宮崎まき婦長は、従軍看護婦の最初の殉職者となりました。

日赤が昭和12年から20年にかけて、国内外に派遣した医師、看護婦らで構成された救護班は960班3万3,156人に達し、その中には看護婦長1,888人、看護婦2万9,562人が含まれていました。

しかし、終戦を迎えても国外から日本に帰還できない救護班や、国内の軍関係の病院で引き続き任務にあたった救護班は340班もありました。日本軍が崩壊した後も、従軍看護婦たちの戦争は終わっていませんでした。救護班要員の引き上げは昭和30年まで続き、殉職した日赤の要員は1,187人に及び、この大半は看護婦であるといわれています。

本日8月15日は、戦後69年目の終戦記念日。戦争の記憶の継承が難しくなっているといわれる昨今、毎年恒例の献花は、埋もれつつある歴史を再発見する機会を与えてくれます。万緑とセミの声があふれる8月、各地では多くの平和祈念行事が執り行われています。これを機に、戦争体験者の方がたの声に耳を傾けてみませんか?

「頼まれて、戦争体験談を話すことがありますが、熱が入ると『そんなに戦争が好きか』と誤った質問が時にはあります。とんでもない。体験者だからこそ、戦争のおろかさ、平和の尊さを語り伝えねばならないのではないでしょうか」

-元日赤従軍看護婦の会『日本赤十字従軍看護婦~戦場に捧げた青春~』より

※現在では「看護師」という呼称が一般的ですが、本稿では当時の時勢を反映してあえて「看護婦」という呼称を使用しています。

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