平成27年6月 旭川赤十字病院100周年記念挨拶

北海道の果てしなく広がる大地、大雪山には少し白い雪が残り、鮮やかな青空と澄んだ空気に少しラベンダーの香りが漂います。旭川赤十字病院100周年記念式典が6月20日、開催され、近衞忠煇日本赤十字社社長が挨拶しました。

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旭川赤十字病院の職員と

北海道内における日本赤十字社の医療活動は、1915年10月に札幌市内に、「日本赤十字社北海道支部仮病院」が開設されたことにはじまります。その後、当時の旭川区からの熱心な誘致により、当院は1923年11月に旭川の地に移転いたしました。

移転した当初、病床数は152床、当時としては珍しい立派な鉄筋コンクリート造りの二階建てで、おしゃれな外観の正面玄関には、彫刻であしらわれた赤十字のマークが飾られていました。内部には、二つの手術台を蓄うドーム型で総ガラス張りの屋根があり、建物全体の美しさは、1997年に登録有形文化財に指定されている、元控訴院で、現在の札幌高裁と並び称されたそうです。

赤十字病院開設に先駆けて、1897年に日本赤十字社北海道支部は救護看護婦の養成を始めており、旭川に病院が移転後に併設された看護専門学校からは、多くの優秀な赤十字看護婦を輩出しました。同校は、2003年に北見市に「日本赤十字北海道看護大学」が設置されたことにより、106年にわたる歴史に幕を閉じましたが、その間に卒業した2169人の看護師が、その後長きにわたり、道内外で多くのいのちと健康を守ってきたことを記憶に留めたいと思います。

1947年当院は、かつて陸軍が層雲峡(そううんきょう)で転地療養所として使っていた施設を、付属診療所として開設しました。診療所はその後、時代の要請に応え、虚弱児療養所を開所するなど、通常診療以外にも重要な役割を果たしましたが、1999年にその役割を終えました。

1937年の日中戦争から第二次世界大戦にかけて、日本赤十字社は戦時の救護に深くかかわりました。北海道支部が招集し、派遣した601人の救護員は、国内のみならず、中国、台湾、ベトナムなど、海外の陸海軍病院や病院船の中でも、多くの傷病者の手当てに当たりました。こうした一連の活動の中から、旭川赤十字病院出身の3名を含む、16名の殉職者が出たことを決して忘れることはできません。

また、外地に残った救護員の中には、終戦後、連合軍側に抑留されて使役された者も多くありました。特に中国では、1953年にようやく引き上げが開始され、最後の救護員が帰還したのは終戦から18年後の1963年になってからでした。サハリンで活動中に、ソ連軍の侵攻により退去命令を受けた、北海道支部養成の上田スミレさんは、重症患者を残して去ることはできないと志願して残留し、抑留の身ながら2年後の帰国まで、救護看護婦としての任務を全うされました。その彼女が、1983年に第29回フローレンス・ナイチンゲール記章を受章され、その活動を認められたことは、道内の皆さまはもとより、日本赤十字社にとって大きな誇りであります。

戦後の混乱期、当院では毎日のように栄養失調によって多くの患者が亡くなったそうです。そこで仕事の合間に、看護婦や看護学生らが農作業に汗を流し、職員が動物を飼育し、食料確保に精を出したという記録もあります。

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まずます活躍が期待されるドクターヘリ

やがて戦後復興を遂げた当院は、1969年に労働組合の自主運営による旭川赤十字保育園を開園し、また、リハビリテーション専門センター、人間ドック、精神障がい者の農作業療法など、さまざまな画期的な取り組みをされました。

当初から力を入れていた救命救急活動が認められ、1978年には救命救急センターの承認を全国で8番目、北海道内では初めて受けられました。2009年にはドクターヘリの基地病院となり、昨年度の出動件数は541件と、72.6%の出動率を誇っており、今後ますます、この領域での活躍が期待されております。

一方、当院の災害救護の活動も、北海道支部病院の時代から100年以上の歴史を誇っています。1898年の石狩原野の洪水、雪山遭難への救護班の派遣がその始まりであり、翌1899年の札幌、藻岩山の雪中難、1907年の函館大火、1911年の稚内大火、1913年の列車転覆、1923年の関東大震災、1926年の十勝岳爆発による泥流災害、1934年の函館大火の救護と続きます。近年では、北海道南西沖地震、阪神・淡路大震災、新潟県中越地震、東日本大震災等の救護活動で、当院は大きな実績を残しておられます。

その活動は国内にとどまらず、2001年のインド西部地震、2004年のイラン南東部地震、2005年のスマトラ沖地震・津波、同じく2005年のパキスタン北部地震、2010年のハイチ大地震の救援のほか、2007年および2009年には、インドネシアの赤十字の病院の支援にも医師や看護師を派遣しました。

1990年には、日本と旧ソ連の友好に貢献した特筆すべき出来事がありました。サハリン州に住む3歳の男の子、コンスタンチン君(愛称コースチャ君)が全身90%という瀕死の大やけどを負い、超法規的措置でサハリンから札幌医科大学附属病院に運ばれ、一命を取り留めました。その8年後、コースチャ君は、当院に約7週間入院し、成長に伴う皮膚移植後の障がいの手当てを受けました。小さな命を救おうと行われたこの救出劇は、両国の友好の象徴的な出来事となりました。

この100年の間には、このように実に多くの試練や、厳しい時代や、ドラマがありました。それらを乗り越えて、当院を今日の姿にまで発展させてこられた先人の事績を振り返る時、そのご労苦をしのび、敬意を表さずにはいられません。

今日、わが国の医療を取り巻く環境は大きく変わりつつあります。旭川市では人口は減少に転じ、高齢化率が30%に達したと聞いております。地域の中核病院である当院が、創立100周年を迎えられたことを契機に、赤十字病院としてのあるべき姿を改めて見直し、地域の皆さまはもとより、広く内外の期待と信頼に応え続けられるよう、今後ますます発展してゆかれることを心より願っております。

結びに、これまで当院をさまざまな形でご支援くださいました地域の皆さま、北海道、旭川市、道内市町村、地元医師会、旭川医科大学をはじめ関係各位に対し、ここに改めて深く感謝を申し上げますとともに、今後とも一層のお力添えを賜りますようお願いし、私の挨拶といたします。

日本赤十字社 社長 近衞忠煇